Mountain Plain Mountain

ダニエルジャコビー・荒木悠のMountain Plain Mountainを見てきた。

端的に言うと、ばんえい競馬の(ドキュメンタリーっぽくない質感の)ドキュメンタリーの映像なのだけど、文明の模型のようなものが濃密な20分ちょっとの短編の中に入っていた。
競馬はバイオレースであるところが面白い。厳密に数値化出来ない肉体を徹底的に数値化し分析し(競馬新聞に競走馬の過去の実績の正確なデータが沢山書き込まれていてそれを手がかりに)未来を予測するゲーム(もちろん競走馬の肉体を観察することも大きな手がかりになる)。予知不可能な未来を予想して、それが的中した時に人間はすごく嬉しい気分になる。それはDNAにプログラムされた生物としての本能。獲物の動きを予測して狩ったり、天候を予想して農地のコンディションを変更したり、風や嵐を先読みして航海したり。「予想」は人という種が繁栄するために重要な要素。また、古代ギリシャの哲学者ターレスは天文学の知識によって翌年のオリーブの豊作を予想して翌年のオリーブの絞り機を借りる権利を買い、実際に翌年オリーブが豊作になるとオリーブ絞り器を人に高く貸し利益を得ました、というのが先物取引の起源として語られる昔話。未来の予想を権利化して、そこから見返りを得る(または損害を被る)、しかもそれは直接的な便益ではない。たとえばターレスはオリーブを収穫したのではなく、収穫したオリーブを絞る機械を使う権利から利益を得たし、たとえば競馬は馬が一番早くゴールに到達したとしてもそこには何か作物等の収穫があるわけではない。つまり実体としての収穫ではなく、未来を予想し的中させるというただのゲーム。動物的肉体にとっては、実体としての収穫が何も存在しないゲーム。そんなゼロ地点に、様々な建築物や社会的な決まり事やワークフローを建設してゆくことで、価値を構築するという行為を我々は文明と呼んでいる。

この短編の中では、ばんえい競馬の舞台裏で働いてる人達や機械達の「手続き」が意図的な緩と急で楽章のように構成されていて、それと祭太郎さんの肉質的な声が絡み合い、非常に音楽的な映像になっている。表面的にはそれだけでお腹いっぱいなくらいかっこいい映像なのだけど、「手続き」を撮っていることがこの作品のどうしようもない重要度を確定させている。まず肉体としてのレイヤー(馬、騎手、調教師、平地、山)があり、そこはただ馬と人と土地がある。そこにスタート地点とゴール地点を決めて、ルールを作ると、そこにレースという舞台が立ち上がる。更にレースをより厳密なものとするため、関係者以外が立ち入れない無菌室のような領域が確保され、舞台裏が生まれる。関係者以外が立ち入れないこのブラックボックスの中で、人や機械が、正確な情報の記録、伝達、計算、開示、つまり「手続き」が行われ、どうにもならない、なるようにしかならない要素(自然、馬、人、など)を、客観的な数字に置き換えていく。この作品に、特に心を打たれたところが、小さなばんえい競馬というシステムの中に登場する人と機械が、単一種類ではないというところだった。それは実に世界の豊穣さを予感させてくる。調教師、騎士はもちろんのこと、特殊な装置を操作し競走馬たちのタイムを計測する人、その数字を受け取り順位を確定させる人、順位は古めかしい黒電話で正確な手続きで伝えられ、暗い部屋の中で人が電光掲示板の装置を操作し、掲示板に順位が点灯される。持ち場の作業がない時間に手持ち無沙汰にしている従業員の女性、詩のような馬名を呟く支配人の男性、競馬新聞を読み書きする観客、双眼鏡で遠くの競走馬を観測する観客、そして舞台裏の機械も機械で、紙と鉛筆、印刷機、白熱電球の電光掲示板、黒電話、ブラウン管、液晶モニタなど、年代が統一されないふぞろいな装置群と人が接続し合う。そしてシステムが動いている。それらはやたらかっこいいモンタージュで提示される。そしてこれは、文明の模型だと感じた。映像を見終わった後、例えばこのばんえい競馬というシステムがある状態とない状態をそれぞれイメージして、文明とは何か、そこでの人の営みとは何か、ということを考えたりした。この短編が、ロッテルダム映画祭、オランダという人工的に土地を埋め立てた干拓の上に構築された国で評価されたのは納得がいく。


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