工作とタイヤの話

最初に工作を意識したのは、のっぽさんの「できるかな?」のボーリングの回だった。私が3歳ぐらいの時。厚紙の短冊を何本か丸めてホッチキスで組み合わせてボーリングの玉にし、ピンも厚紙で作って、実際に遊べるボーリングセットを紹介していた。これは母親と一緒に見ていて、ねだったら母親がすぐ作ってくれた。工作の概念が初めてインストールされたのはこのときだった。

次の重要な瞬間は、6歳ごろ。市販のおもちゃは遊んでたら壊れたり、部品がなくなったりする。壊れたり紛失したりした部品の替えがきかないことに納得できなくなった。それで、おばあちゃんと一緒にクリッパーという模型屋さんにいって、前からその存在は認識していたタミヤの「工作シリーズ」の、かっこいいタイヤと、ギヤセットと、電池ボックスと、マブチモーターとを買ってもらって、かまぼこ板か何かに組み付けて、走るクルマのおもちゃを作って公園で走らせた。部品はいろいろ流用されたりしてこのおもちゃは部品のガラクタになった。

あとは、その都度作りたいものを作ってきた。

個々の部品や機構から発想してきたように思う。「かっこいいタイヤ」とか、「かっこいいキャタピラ」とか。かっこいいタイヤとホイールの径の比率を考えるためにタイヤの落書きをたくさん描いた気がする。

かっこいいタイヤを見たら、そこから全体を妄想した。タイヤのサイズ感やフォルムから、そのクルマの走る場所とか、そこから導き出されるホイールベース、トレッド幅、ボディ、など。クルマが走るためのタイヤではなく、タイヤのための全体とタイヤが引き立つためのプログラム。およそ工学的な考え方ではない。(工学は、まず問題があり、問題の抽象化があり、そこから最適解を見つけ出し、設計してから、実装をする。)

一言で説明するならそれはブリコラージュ的発想(寄せ集めとか修繕ということ。物から発想すること。)だが、一個のタイヤにはストレートな機能以上のなにかもっと豊潤な可能性を感じることができる。一個のタイヤを見て、物を運ぶのに便利だと思うのはつまらないものの見方で、そのタイヤが使われるのは1輪なのか2輪なのか3輪なのか4輪なのか、6輪なのか8輪なのか、16輪なのかで話は全然違ってくる。タイヤは何にでもなれる。しかし、最高にかっこいいタイヤになるためには、本当に何にでもなれるわけではない。

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