科挙:3000人に1人の官僚選抜
近代以前の中国の行政制度では、科挙と宦官が双璧です。
宦官は麻酔なしの去勢術が痛そうだから、敬遠しています。
科挙については、
とんでもない倍率だった
最も難しかった清代では、3000人に1人、0.03%です。何段階も試験があった
清代では5段階もありました。教養試験ばかりやっていて、実務能力を測定しなかった
古典をたくさん知っていて、そこから引用した文章を作成する能力が必要でした。浪人が多かった
官僚になるには遅すぎる、白髪頭の年寄りになっても、受験を続ける人がいました。
ということが知られていて、それはそうなのだが、なぜこんなものが1300年も継続したのかについては知られていない。
途中、何度も王朝交代があり、また、元や清みたいに、漢民族ではない、異民族の征服王朝が成立すると、一時的に科挙は止まるのですが、結局は、科挙が行われました。
科挙に受からなかった洪秀全が起こした反乱、太平天国においてすら、科挙が行われました。
科挙には、数々の弊害はあっても、歴代王朝が採用せざるを得ない必然性があったのです。それは…
皇帝直属の官僚を大量に採用するためです。
「科挙」の著者、宮崎市定は、それを強く訴えています。
縁故主義で官僚を採用すると、官僚は縁故に引っ張られて、皇帝の思うがままには動かないのです。
皇帝権力を強化するには、縁故と決別したクリーンな官僚を採用するしくみが必要なのです。
口で言うのは簡単なことですが、科挙を実施するには、最低限度、
紙と筆記具が豊富に供給されている
同じ言語を読み書きできる受験生が大量にいる
という前提条件が必要です。どちらも隋代、7世紀には準備されていた中国文明がいかに高度だったか。同時代の日本じゃとても無理でした。
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