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苦しかった時の話をしようか

 誰もが人生の中で、苦しかったり、挫折をしたり、悩んだりすることはあるだろう。そのときはとても苦しくて、やめたくて、逃げ出したくなることもあるだろう。でも、それから逃げなかったあなたは素晴らしい。強くて逞しい。自分をほめてあげてほしい。

僕にもあった。人生の中で苦しかったこと、人にあまり言いたくないようなこと。今ではもういい思い出だし、その経験があって今の自分があると思ってるから何にも引け目に感じないけど。金曜やし、時間あるし長めに書いてみよう。

 今でも、思い出したら泣きたくなるような話。知っての通り、僕は高校三年間、ずっと野球をしてた。

目標は甲子園。中学校の卒業式で親を甲子園に連れていきたいって豪語してた。割と本気で思ってた。高校に入学して、想像を絶する毎日が待ってた。先輩は怖いし、挨拶は地獄やし、朝は早いし、家の中では弱音は吐けないし、体育もトレーニングやし、練習も筋トレばっかりで、練習終わりも1時間自転車で山道一人で帰ってた。そんな生活が続いた。その時の彼女にも振られ、何もうまいこといかない日々に心も体も悲鳴を上げてた。何をするにも楽しくなくて、唯一の楽しみは休みの日ぐらい。貴重な1日のオフを楽しみに練習していた。そんな奴に結果なんか出るわけもない。結果を出させてもらうチャンスすらない。自分が甲子園で野球をしていることなんかより、自分がこの先野球をずっとしていることすらも想像できないような日々だった。それでも、やるしかなくて、ただがむしゃらについていった。1年なんかあっという間に過ぎてった。二年になって、突然の送球難になった。自分でもわからないくらいボールを狙ったところになれなくなった。それを見越して、監督が一言。「ブルペンに入って練習しろ」と。「わかりました。」と、キャッチャーのやつを連れてブルペンに入った。ピッチャーは小学校の時に少ししたぐらい。ちゃんとした経験はなかった。投げてみたら、ストライクばんばん入って、なんか監督にピッチャーやるか?って言われて、はい!って言ってピッチャーに転向した。その時、同じポジションには、一個上の代からレギュラーの子がいて、このまま行っても一生ベンチかベンチ外なら、いっそのこと少しでも出れるチャンスのあるピッチャーの方がやってみたいってとっさに思って、一日でピッチャーメニューに参加することに。

それが、2年の春。ある日突然ピッチャーになったのは、いいけど変化球はお遊び程度でしか、投げてないし、初めてくらいで、見様見真似でそれなりにやってた。自分の中で、なんかこれなら勝負できるかもっていう自分の中で少し希望が見えた。そこからの自分の野球に対する意欲が激増。練習に対しても、むちゃくちゃ意欲的になって、家に帰っても、体の切れを出すために、短距離のダッシュと、シャドーピッチングして、筋トレして寝てた。朝練は、タイヤ押し、タイヤ引き、筋トレ。昼休みは、体育館に合った筋トレ器具で、筋トレかストレッチ。午後は練習。オフの日は、筋トレとか、自主練したり、プールいって全身運動。それくらい自分を追い込んだ。一つ上の代では、県ベスト4。準決勝で最終回で逆転負け。よし、自分の代で甲子園。自分の目標は甲子園のマウンドに立つことになってた。自分の代になって、練習試合でもAチームでガンガン投げるようになって、ある程度結果もついてきてた。球速も、MAX133とか134とかまで上がって、自分の成長に驚いてた。秋の大会は出番はなく、チームもすぐ負けた。俺らってやっぱ弱いんやってそこで気づいた。悔しかったけど、仕方ない。情けないけど、仕方ない。こんなところで負けるチームで投げてない自分も悔しかった。そこから最後の冬の練習は死ぬ気で練習した。一冬で体重7,8キロ上げて、球速も140近くまで上がった。しこたま筋トレして、冬前はベンチ60とかやったのが、90くらいまで上がった。見るからに体が一回り大きくなった。ピッチングコーチからこの冬の敢闘賞みたいなのがあって、そのピッチャー賞をもらった。そして、春の大会は、背番号10番をもらった。秋の大会は18番のぎりぎり。俺らのチームは、1、10、11、18の順番になってる。二番手ぐらいまで上がった。試合でも公式戦で投げるようになって、自分の中でも手ごたえがあった。背番号の重みを感じて、公式戦でプレーできている自分が嬉しかった。何より、ちゃんと親にその姿を見せたかったのがあった。春の大会はベスト8で敗退。もっと勝ち上がれると思ってたし、夏に向けてチーム全体がだいぶ仕上がってきてた状態だったからいけると思ってた。現実ってなかなか残酷。

春も終わり、残すところ最後の夏。春の大会が終わり、そこから怒涛の練習試合づくめ。毎週遠征。死ぬほど試合した。試合しては走って、投げて、トレーニングして。休める事を知らずに投げまくってた。まあ、そんなことしてたら壊すよな。

肩を壊した。試合中に突然投げられないぐらい激痛走った。どうにかごまかそうと思ったけど、無理なくらい痛くて、でも休みたくなかった。正直このままいけば夏の大会でベンチに入れるかわからんっていう怖さが自分の中にあった。でも隠し切れずに、ピッチングコーチにばれた。

お前、痛いんか?

痛くないって言えなかった。苦しかったけど。言いたくなかったけど、もう限界まで痛かった。今思えば、少し痛かった時点でちゃんと休んで治してれば全然チャンスはあったのに。自分の焦りが大きなダメージになった。夏に間に合わなかった。俺らのチームはもうベンチ入りをあきらめた3年生は、夏の大会前にサポートへ回る。治ってない肩を振り絞って、練習で必死にアピールしてた。せめてベンチに入りたくて。

他の3年生は、もうベンチ入りをあきらめて、サポート回ってて、自分は正直微妙なライン。なかなか厳しいライン。可能性があるなら5%くらい。でも、自分を信じてた。

でも、結果はベンチ外。悔しかった。でも家では悔しいって言えなかった。なんか言われたらすぐに泣いてしまいそうな目を隠すのに必死だった。親は当然気づいてるだろう。たぶん、あえて何も言ってこなかった。親に対しても何も言えなかった。ごめんもありがとうも。言えた言葉は、

無理やった。(笑)

苦し紛れに笑った。俺自身が悔しいのは当然だけど、親としても悔しいはず。絶対に。3年間毎日毎日朝から弁当作ってくれて、試合はほとんど見に来てくれて。一番そばで応援してくれてた。本当に申し訳なかった。今までの自分を責めたり、自己嫌悪になったりもしたけど、チームのみんなは優しかった。大会で、俺のバットを使ってくれたり、俺の練習用のTシャツでアップしてくれたり。そこからともに頑張ってきた仲間を甲子園に行かせよう。って思えるようになれた。初めてサポートしようって思えた。

そのサポートの立場になって、マネージャーの手伝いをした。洗い物、飲み物作ったりして、マネージャーのありがたさに気づいた。自分がプレーするわけでもないのに、毎日毎日朝から晩まで一緒に練習のサポートをしてくれて、何から何まで裏の仕事をしてくれてた。そんな人に対する感謝とか、思いが自分になくて、大変なことをしてくれてたってことに初めて気づけた。

選手をやってたら気づいてないだろうなっておもった。自分の事に精一杯になって、口ではありがとうって言っても、心の中から思って言えなかった。その立場に立って気づくことができた。裏方の人がいてこんな野球ができてるって。ベンチ外れて大切なことを学べた気がした。


チームは結局準優勝。甲子園には行けなかった。でも、自分のチームが誇らしくて、チームメイトが誇らしかった。自分自身も誇らしかった。よく頑張ったって自分をほめてあげた。苦しかったことがあるから、今がある。

あの挫折があるから、今がある。

あの経験があるからいろんなことに気付けるようになれた。

表で頑張ってる人の陰には、裏の支えがあるって気づけた。


苦しい経験も、いつかその経験を肯定できるような日々は来る。そう信じてる。だから向き合おう。自分と、目の前に起きていることと。


これからの社会人生活、幾度となく挫折をするだろう。悔しい思いも、泣くようなこともあると思うけど、今の自分なら大丈夫ってそう言い聞かせて、来週からも頑張ろう。


改めて、関わってくださるすべての方に感謝。ありがとう。


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