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批判から自分を守るプロテクターを内に持つ

以前に、後悔を成仏させる方法について書いた。

後悔を成仏させるプロセスを知っておけば、それを知らない時よりも回復力が増す。沈み込んで戻って来るまでの時間が短くなったり、落ち込む頻度が少なくなる。

とはいえ、おもむろに後悔が蘇ってくることもある。あれは防ぎようがない。出てくるものは出てくる。生理現象のようなものだ。お腹が空いて「ぐぅ〜」と鳴るようなものだ。

後悔は、その多くが外側の出来事をトリガーとして、内側から引きずり出されてくる。

  • 余計な一言を言ってしまった。

  • 言いたいことが言えなかった。

  • おせっかいをしてやり過ぎてしまった。

  • 仕事でミスした。

  • 子供を感情的に怒ってしまった。

  • 誰かを救えなかった。

  • 困っている人を見たのに素通りしてしまった。

後悔のトリガーはあちこちに潜んでいる。

内発的に自覚的に浮かび上がる後悔もあれば、後追いでやってくる外発的な後悔もある。自分の発言や行動が、周りから批判され、後悔する。SNSでよく起きている事象だ。

後から「考えが浅かった…」と気付いたり、「そんなつもりで言ったわけじゃないのに…」と自身の言葉足らずな表現を悔やむ。相手の受け取り方によって、思い違いが起きることもある。

SNSで自身の言葉を発していこうとするとき、多くの人を抑え込むのが「叩かれたら、どうしよう?」という感情。考えもしなかった角度から突っ込みが入り、袋叩きにされたらどうしようかと想像し、怖くなり、発することを止める。

無名の新人は炎上するほど注目されていないが、そこそこの人に「見られている」感覚が出てきたとき、その恐怖が強まる。批判への恐れが、僕らの足を止めてしまう。

「批判」に対して、僕らはどう対処すればいいのか

春樹さんは、そこに「受け入れと明らめの姿勢」を持っていた。

でもその作品を書いた時点では、きっとそれ以上うまく書くことはできなかっただろうと、基本的に考えています。自分はその時点における全力を尽くしたのだということがわかっているからです。(中略)そういう「出し切った」手応えが自分の中に今でも残っています。

村上春樹著「職業としての小説家」ハードカバー本P155

“今の自分”で思い返すと、後悔してしまうような行為や言動もある。「あぁ、恥ずかしい。なんてことをしてしまったんだ。」

しかし、少なくとも“あのときの自分”は未熟ながら、それがベストだと考えてやったのだ。大切なのは「出し切った」という実感が持てるほどに、自分がやり切っていること。考え抜いていること。

その「実感」が、自分を支えてくれる。

だから僕は自分の作品が刊行されて、それがたとえ厳しいーー思いも寄らぬほど厳しいーー批評を受けたとしても、「まあ、それも仕方ないや」と思うことができます。なぜなら僕には「やるべきことはやった」という実感があるからです。

村上春樹著「職業としての小説家」ハードカバー本P156

いくら自分が「やれることはやった」と思っていても、周囲からどう評価されるかはわからない。

やれることをやって作りあげた表現物に思ったような評価が得られないこともある。SNSに熱い想いを発したが批判を受けてしまうこともある。そもそも反応が薄く、肩透かしを食らうこともある。

外の世界から跳ね返ってきた衝撃波と、自身が浴びせる自己否定のダブルボディーブローが効いてきて、「あぁ…、ダメなのかな… 」と自信を失ったりする。

不安、挫折、自信喪失。悲しみと怖れで、自身の言葉や表現を出していけなくなる人もいるかもしれませんが、それでも僕らは「出していく」しかないようです。

自分の書いた作品が優れているのかどうか、もし優れているとしたらどの程度優れているのか、そんなことは僕にはわかりません。
(中略)
僕はそれらの作品を書くにあたって惜しみなく時間をかけたし、カーヴァーの言葉を借りれば「力の及ぶ限りにおいて最良のもの」を書くべく努力したということくらいです。
(中略)
もしうまく書けていなかったとしたら、その作品を書いた時点では僕にはまだ作家としての力量が不足していたーそれだけのことです。

残念なことではありますが、恥ずべきことではありません。

不足している力量はあとから努力して埋めることができます。しかし失われた機会を取り戻すことはできません。

村上春樹著「職業としての小説家」ハードカバー本P159

今の自分の判断や行動が「優れているのか」は、本当の意味で客観的に見ることは永遠にできない。そもそも「優れている」という判断軸も、人それぞれで違っている。

となればやるべきは、今の自分が「力の及ぶ限りにおいて最良」と思えることをしていくのみ。最初からスキルや能力が「レベル99」の人なんていないわけで、ある意味では、すべての人が力量不足。でも、それは「恥ずべきことではない」と言ってくれる春樹さんの言葉に、勇気づけられます。

必要なのは、自分自身がそう思えるだけの姿勢でやったのかどうか。

椎名林檎の歌詞に想う「そう思えるだけの姿勢」

今回の内容から連想して歌詞が浮かんできた、僕の好きな曲があります。椎名林檎の「人生は夢だらけ」。あまりにポジティブなタイトルフレーズ。それとは裏腹に、歌詞には“あきらめ”と“わずかな希望”が織り交ぜられています。

♪この世にあってほしいものをつくるよ
ちいさくて、慎ましくて、無くなる瞬間

こんな時代じゃ、手間ひまかけよが、しまいには一緒くた
きっと違いのわかる人はいます そう信じて丁寧にこさえて居ましょう♪

椎名林檎「人生は夢だらけ」

まさに、「力の及ぶ限りにおいて最良と思えることをしていくのみ」を表した歌詞。たまに聞くことで、その姿勢を思い出し、背筋が伸びます。「よし、ちゃんとやろ。」と。

”そこ”に入り込んで、時間が消えるほどに夢中で没頭していられる瞬間。それこそが幸せであり、その感覚を味わうために生きているようにも思います。そして、その瞬間と「やれることはやった」感覚を持っていられれば、外側の衝撃波にはグラつかない。批判に耐えうるだけの強度を自分の中に持つことができる。

プロセスのひとつひとつに十分な時間をかけることができたかどうか、それは作家だけが実感できるものごとです。そしてそのような作業ひとつひとつにかけられた時間のクォリティーは必ず作品の「納得性」となって現れてきます。目には見えないかもしれないけど、そこには歴然とした違いが生まれます。

村上春樹著「職業としての小説家」ハードカバー本P155

”違いのわかる男”になりたいものです。
(なんか、そういうCMありましたね。)

P156には、温泉と家庭風呂の違いで、”肌身で実感できる違い”のことが言及されています。

温度計で測ると同じ温度ではあるものの、実感として温まり方が違う。これはレンジで温めたお湯と、やかんで沸かしたお湯を比べると、レンジの方は冷めやすいのに対し、やかんのお湯は温かさが長く続く話も同様。

「同じ温度」ではあるものの、そこにある「肌身の実感」は異なる。それは、まったくもって目には見えないし、温度計でも科学的な違いが現れてこない。しかし、そこにある”なにか”を人間は感じ取ってるわけですな。すげーわ、ヒューマン。

信じるのは、自分の「実感」

最後に、グッと響いた言葉で締めます。

自分の「実感」を何より信じましょう。

たとえまわりがなんと言おうと、
そんなことは関係ありません。

書き手にとっても、

また

読み手にとっても、

「実感」にまさる基準はどこにもありません。

村上春樹著「職業としての小説家」ハードカバー本P160

それって、あなたの感想ですよね?」というフレーズが流行り言葉のようになっているが、「僕は十分にやり切った」という自身の主観的な感想である「実感」を持てていることが、なにより自分を支えてくれる。

最後に信じられるのは、自分の「実感」。

今日も「やるべきことはやった」と思える一日を。

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