偽義経冥界歌を観てきました。

もうちょっと体裁を整えたのがブログに載ってる。

生田斗真さん演ずる奥華玄九郎。彼は物語の進行とともに様々に変わっていく。名前が変わり、立場が変わる。所属が変わる、敵味方が変わる、生死が変わる、虚実が変わる。義経の悪行によって、父の思惑によって、静歌のうたによって。弁慶の裏切りによって、父だったものの追及によって、彼を想う者たちのうたによって。玄九郎自身が変わったわけではなくても((彼自身は何も変わっていないからこそ、父の言葉に悩んだのだから。))、周りの思惑で彼という存在の意味が変わる。底抜けに明るくて心根がまっすぐで誰もが憎めない彼の人柄も、こごった空気を盤ごとひっくり返して風を吹き込む物語上の役割も同じなのに。

藤原さくらさん演ずる静歌もそうだ。一度心を許した相手をとことん信じ、誰かを想いうたを歌う。彼女はそういう人間だろう。彼女のうたの意味を、物語における彼女の立ち位置を変えていたのは、いつだって周りの誰かの願いだった。
冥界の門を開くための歌。あの歌の詞が聞き取れたとき泣きそうだった。だってあんなの、あんまりじゃないか。生者のために死者を喚び戻す歌。彼女が初めに歌っていたのは死者の安らぎを祈る慰めのうただったのに、あの歌にはそんなもの欠片も入っちゃいなかった。義経に請われて誰かのために歌う。彼女の筋は何も変わっちゃいないのに、そのうたは死者の憎しみを掻き立てて解き放つものに変わってしまった。彼らを生者が利用するために。


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