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掌編『ふたりの幽霊、22時』

 薄暗いホーム。肌を刺しながら吹き抜けた北風が、駅の南側の眼下に広がる公園の等間隔に植えられた木の枝を撫でるように順に揺らしていく。その揺れ動く枝葉をぼんやりと蒼白く浮かび上がらせるのは等間隔に置かれた街灯で、駅前の一隅の更けていく闇をやる気なく照らしている。
 トオルは長い自粛生活が終わり、久々に同僚と飲む機会を持ったが、他人と対面でどんな風に話していたのか、間合いがしっくりこないまま、ただただ酒量が増えてしまった。スマホの時計を見ると22時になるところで急いで店を出て同僚に別れを告げ、駅のホームに駆けこんだ。
 K駅のホームに立ったトオルは背中に冷たい風を受け、グッとアヒルのように首を縮める。ホームは人もまばら、彼は次の22時の電車が来るまでの間、風を避けるために先ほど降りてきた階段の裏に回り、水色のプラスチックのベンチに座った。いくらか寒さをしのげるそのベンチからは公園が望める。公園のあたりは闇の中に何もかもが紛れていた。ふと、トオルは、ベンチから数メートル先のホームに一人立っている、制服姿の少女に気づいた。風に黒く長い髪が柔らかく揺れ、シワのない制服、艶のある革靴は清潔な印象を与えた。塾の帰りなのか、手提げバッグを手にした黒髪の少女の後ろ姿を、酔いも手伝って、トオルはしばらく視界の隅に置いて感慨に耽っていた。もし、彼が結婚して、子供でもいたならこれくらいの年齢だったろうか。最近は、年頃の子供を見ると、自分が手に出来なかった幸福な別の人生を想い描くのが常になっていた。彼が幼い頃に想い描いていた未来は、こんな孤独なものではなかったはずだった。

 トオルの視線の先の少女は、公園の方を先程からずっと熱心に見つめていた。気になってトオルも視線を彼女が見ている辺りに投げた。薄暗い公園の端にある大きな樫の木の下、暗がりの中で二つの影がモゾモゾと動いている。悪い目を細めて焦点を絞ると、二つの影が人の形を帯びてくる。
 あぁ、男女が睦ましそうに身を寄せ合っているのだ、とトオルは合点した。どうやら制服を着た若い男女が、こちらもまた塾帰りなのだろうか、自転車を傍にとめたまま、寒い中お互いの身体を密着させていた。年頃の少女にはそういった光景が気になるのだろう、冷たい風に吹かれ、絹のような髪がさらさらと波打ち、スカートが静かに揺れるのも気に留めず、その男女から少女は視線を外さない。

 もしかしたら男女のどちらかは少女の知り合いなのかもしれない、そんなことを考えながら、闇の中で睦み合い、キスしようと顔を近づける男女をトオルもしばらく眺めていた。悪趣味かな、と少し気恥ずかしくなってきたところへ、トオルの背後からさっと冷たい気配が通り過ぎた。トオルが頭を振ると、この辺ではあまり見ない制服のショートカットの少女が、公園の方を見つめている黒い髪の少女の方に歩んでいった。先にホームにいた少女は振り向くと、照れくさそうに口許に笑みをたたえて、「またいるよ、あの二人」とショートの少女に話しかけた。「あそこだけなんだか熱いよねぇ」と笑顔で応える。以前からの友人なのだろうか、二人の間には信頼しあっているものだけにある親しみが感じられた。
 少女たちの話す言葉にトオルは聞き耳を立てる。「あのさ、私ママから昔聞いたんだけど、あの公園の前の道で昔、交通事故があって恋人同士の高校生が亡くなった事があるんだって。だから、あの二人もさぁ、実は……」と含みを持たせてショートカットの少女は眉を寄せて表情をつくる。するともう一人が、「でもさ、キスが心残りだったんじゃない? あんなにキスしてるんだから。幽霊として出てくるにしては動機が不純だよ」と無邪気に笑う。「そうかなぁ、なんか素敵じゃない? 幽霊になってまでキスをしちゃう二人って」ショートカットの少女は胸の前で手を組んで、わざとらしく天を仰ぎみた。
 トオルはそのやりとりを聴きながら、マスクの下で微笑んだ。確かに幽霊が恨みもないのに、キスが心残りで出てきちゃうのは反則だ。優しく笑い合う二人の少女の姿を目に映しながら、トオルはこの名も知らぬ少女たちの幸せを願わずにはいられなかった。氷河期世代と呼ばれ、孤独に老いていく自分より、この無垢な笑顔を振りまく幸せな存在にこそ、人生の喜びや光が満ち溢れて欲しいとさえ思った。

 酔いの影響か、少し目頭から滲むものがあり、マスクから酔った息が漏れてトオルのメガネは曇った。と同時に、少女たちの向こう側から電車が眩い光を強めながら近づいてきた。そういえば、彼女たち、この時期にマスクをしていないのも珍しいな、と考えながらメガネのくもりをネクタイで拭き、再び視界をクリアにして立ち上がると、二人の少女の姿はもうどこにも見当たらなかった。トオルは階段の方に廻って二人がどこに隠れたのか探したが、影も形も見つからなかった。ホームに滑り込んできた電車の窓の向こうでは、まだ二人の男女が、愛を確かめるために熱いキスをしている。
 冷たい風が二人の男女の側の大きな木の枝を、騒がしそうに揺らした。

        了

#小説

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