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【イノシチとイモガラ珍百景】 #15 ホホー鳥のたくわえ処

とある山奥の民宿の、とりわけ選ばれしお客様のみが宿泊を許される特別な一室で、いかにも何か一つのことにのめり込みそうな感じの長髪の男性が、お風呂上がりの至福のひとときを満喫していました。
彼は縞模様の浴衣をまるで普段着のごとく着こなし、悠然と窓際のロッキングチェアに揺られながら、持参した雑誌を熱心に読んでいました。
最近この雑誌には、『イノシチとイモガラ珍百景』なるタイトルで、誌面のごく小さなスペースではありますが、絵描きの青年・イノシチが親友のシシゾーと共に各地に点在する“イモガラ珍百景”を訪ね歩くというエッセイが連載されています。この連載こそが、男性の最も関心のある事柄といっても差し支えありませんでした。
かつて男性は、このエッセイについて「庶民的で素朴な感想」と評したことがあります。まさにその通りで、文の書き手であるイノシチは別にプロの作家というわけではなく、ただ素朴に思ったことを正直に書き綴るといういわば“日記”テイストの味わいが滲み出るという点においては、これ以上適切な指摘はないように思われました。
「ふむふむ……なんと! これは知らなかった」
ブツブツと独り言を言ったり、感心したりしながらエッセイを読み終えると、その男──自称“イモガラ珍百景調査員”ことカゲヤマは、ンフフフフ、と満足げに含み笑いしました。
「素晴らしい! 小生も長年知ることのできなかった“イモガラ御殿”の内部がついに明らかに!」
彼はグラスに注いだ果実酒を一口味わうと、民宿の女将さんお手製のスルメをムグムグと頬張りました。カゲヤマはこの組み合わせこそが、この世で一番のごちそうだと信じて疑いませんでした。
その時、部屋のふすまが静かにノックされ、失礼いたします、と女将さんが入ってきました。彼女の手にしたお盆の上には、できたてのスルメがこれでもかと積み上げられていました。
「カゲヤマ様、おくつろぎいただけていますか」
「ええ、おかげさまで」とカゲヤマは微笑んで言いました。
「やはりこの宿は、いつ来ても良いですな。小生、都会の日々に疲れるといつもここが恋しくなるのですよ」
「まあ、いつもごひいきにしてくだすって、ありがとう存じます。果実酒のお味は、いかがでしたかしら」
「上々ですな。ここでしか味わえぬと知ったら、もっと繁盛するでしょうに」
「ありがたいお言葉でございますが、」
と女将さんは、ちょっと困ったように笑って言いました。
「何しろこちらのお酒は、例の“たくわえ処”でしか採れませんもので。カゲヤマ様には、その辺りもいつもご配慮いただいて、誠に心苦しい限りではございますが」
「何、構わんですよ」
とカゲヤマは、果実酒をもう一口すすって言いました。
「そもそも、彼(か)の鳥の気まぐれがもたらした奇跡ですからな。それも、いつも同じ場所で出会えるとは限らない」
「まことに、おっしゃる通りでございます」
女将さんが大きくうなずいた瞬間、窓の外から、ホホー、という遠吠えのような何かの鳴き声が風に乗って聞こえてきました。即座に彼女の表情に緊張感が走り、彼女はキッと顔を上げると短く一つだけ、パン! と廊下に響き渡るように手を叩きました。部屋の外で複数のかすかな足音がしたかと思うと、カゲヤマたちのいる部屋の前でピタリと音がやみました。
「見張りを頼みましたよ」
女将さんがコソッと耳打ちするくらいの声で一言発すると、はっ、と承知の意を示す短いかけ声とともに、また複数の足音たちはあっという間に去っていきました。カゲヤマには、その一連の行動に少なからず心当たりがありました。
「おや。お出ましのようですな」
「はい。ここのところ、ひんぱんに」
緊張の色を隠さぬまま、女将さんは少し早口になりました。
「我々イノシシに対して危害は加えない、ということはイノシチさんが既に証明してくださいましたが、やはりお客様の手前、そうも言っていられないのでございますよ」
「そりゃ当然でしょう。それこそが、あなたがたの本来の務めでもあるわけですからな」
とカゲヤマは、女将さんをねぎらうように言いました。
「まあ、あなたがたの立場も大変でしょう。小生みたいな“ネズミ”が、しょっちゅうここへ出入りしているんですからね」
「あらやだカゲヤマ様、ご自分をネズミだなんて」
カゲヤマの軽口に、女将さんもつい顔がほころびましたが、よく見るとその目はあまり笑っていませんでした。カゲヤマも慣れたもので、うすうすそれには気がついていました。
「ともかく、ここは小生にとってまたとない癒しのオアシスなのです。何かあっては実に困りますから、これで少しばかり何かの足しにしてください」
そう言ってカゲヤマは、懐から少し厚みのある封筒を取り出し、さりげなく女将さんに手渡しました。女将さんは、一応いったんはお断りするような素振りを見せましたが、わりとすんなりそれを受け取りました。
「まあ、いつも本当に助かります、カゲヤマ様」
封筒をうやうやしく捧げ持ち、女将さんは丁重にお礼を述べました。構いませんよ、とカゲヤマはやんわり手で制しました。
「それより、明日こそは小生を連れて行ってくれるんでしょう? 前々からの約束、お忘れではないですね? ヤナギさん」
「もちろんでございますよ、カゲヤマ様。この秘境の宿には、あちこちに “ホホー鳥のたくわえ処”が隠されています。そのうちの一か所を、特別にご案内させていただきますから、お楽しみに。ウフフ」
満面の笑みで、女将さんことヤナギは答えました。それを聞いたカゲヤマも、満足そうに何度もうなずきました。
「いやあ、実に楽しみですなあ。これまで小生も、お茶を濁しながら紹介してきたこの珍百景の現場を、ようやくちゃんと見られるのですからな」
「その代わり、どうかお覚悟なさってくださいませ。何しろ現場は大変険しい山道ですからね、カゲヤマ様」
「おぉ……やはり自力で行かねばダメですか、そうですな」
あわよくば常連の駕籠屋さんを呼んで運んでもらおう、とたくらんでいたカゲヤマですが、どうやらそうは問屋がおろさないようですね!

【ホホー鳥のたくわえ処】
秘境の里のどこかに点在しているという、イモガラ島でもごく一部のマニアにしか知られていない珍百景。ホホー鳥とは、イモガラ島の近海をよくウロウロしているという巨大な鳥で、果物などの甘いものに目がない。食べかけの果物のカスや皮などを捨てるための窪みをあちこちに作り、そこに捨てられたカスなどがどういうわけか謎の発酵を経て、山の綺麗な湧き水と混ざり合い絶品の果実酒となる。この希少な果実酒は、秘境の温泉宿でしか味わうことができない(なお、宿の女将お手製のスルメと共に味わうと最高のマリアージュをもたらす)。

レア度:マツタケ級


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