この20 年で2倍になった人工透析患者、無策が招いた結果。2020招致は国民皆スポーツのためだった。


十年間で三割増えた国民医療費

「二〇二〇東京五輪」を招致した際の目的のひとつは、なぜかいまはすっかり忘れられているが「都民・国民がスポーツに親しみ健康を維持し、膨れ上がる国民医療費を抑制する」ことにあった。 国民の平均寿命は男八十一歳、女八十七歳と世界のトップクラスだが、健康寿命つまり日常的・継続的な医療・介護に依存しないで、自分の心身で生命を維持し、自立した生活ができる生存期間(定義――日常生活に制限のない期間の平均)、これは男七十二歳、女七十五歳でしかない。健康な生活を続けられなければ、人生百年時代と謳われていても、ただ長生きをするだけではあまりにも寂しい人生だ。

 いま国民医療費四三兆円、介護費一二兆円だが、団塊世代が後期高齢者となる二〇二五 年にはそれぞれ給付が四八兆円、一五兆円へとさらに膨らむと予想されている。僕は団塊 世代の筆頭で七十三歳、健康寿命の期限にすでに追いつかれている。国民・都民がスポー ツに親しみ健康を維持する、は僕個人でも実感しているところだ。

 九年前の六十四歳で人間ドックを受診したところ糖尿病の数値が少し高いと指摘された。それでランニングを始めて、以来、いまでも毎月五〇キロメートルの走破達成を自分 に課し、スマホに記録しつつ実行している。そのため血糖値はほぼ正常に近い数値を現在 も維持できている。

 僕のような軽い糖尿病は、高血圧と同様にある種の成人病に分類されるもので、六〇代 以上では二人に一人ぐらいの割合で存在している。つまり健康管理によほど気をつけてい ないと誰でも罹る病気である。人間ドックの血液検査では空腹時の血糖値で測っていた が、このごろは過去一〜二カ月の血糖状態を示すHbA1cという指標で判断するのがふつうになっている。

 厚生労働省が実施した調査(「二〇一六年国民健康・栄養調査」)によると糖尿病が疑われる成人は一〇〇〇万人以上に上ったことがわかった。HbA1c六・五パーセント以上の 人を「糖尿病が強く疑われる」と判定、六・〇以上、六・五未満を「糖尿病の可能性を否 定できない」と判定した。その結果、男性は六〇歳代で二一・八パーセント、七〇歳代で 二三・二パーセント、女性はそれぞれ一二・〇パーセント、一六・八パーセントが該当す る。高齢者ほど糖尿病の罹患率が高いし、特定健康検査(メタボ検診)で見つかることが多いのは運動不足や肥満などが原因で発症しやすいからだ。

 初期の糖尿病は自覚症状がなく、放っておいて 重 篤化すれば血管がぼろぼろになり、内臓や筋肉が壊死する怖い病気である。腎臓透析患者は三三万人いるが、ほとんどは糖尿病の悪化に起因している。腎臓透析は患者の自己負担はゼロに近く一人に毎月四六万円 (三・三万円×一四回)、年間五五〇万円の医療費がかかっている。

 透析患者は増え続けている。一九九六年に一六万五〇〇〇人だったが二〇一七年に三三 万人を突破している。わずか二十年で二倍に増えた。

 透析患者三三万人に年間一兆八〇〇〇億円の医療費が費やされているのは、国民皆保険 制度のたまものではあるが、自覚的にスポーツをやるなど留意すれば(遺伝因子に起因す るI型糖尿病を除く)、悪化を予防できる可能性もある。個人にふりかかる病やまいに決して 自己責任論を述べるつもりはないので、誤解しないでいただきたい。

 麻生太郎財務大臣が二〇一八年十月の記者会見で「(麻生さんの先輩が)自分で飲み倒 して、運動も全然しねえで、糖尿も全然無視している人の医療費を、健康に努力している オレが払うのはあほらしい、やってられん、といった」と話して物議をかもした。弱者へ の配慮を欠いた言い方なので批判を浴びたが、自分の病気はもし予防できるならそれに越したことはない。
 もちろん予防医療については「長生きをすることで医療費がかかるタイミングを先送りしているだけで、生涯医療費が減るわけではない」との学説が医療経済学では定説とされていることも承知している。ただこの学説をもって報われるはずの努力は放棄すべきではないし、医療費削減への取り組みを、よりよき医療のための医療制度の構造改革へと向けることと矛盾するわけでもない。麻生発言は、保険料の成り立ちについては真実を衝いている面がある。

 医療保険制度も介護保険制度も、医師・看護師・薬剤師・理学療法士・介護福祉士など医療・介護従事者だけでなく、保険料 の支払いサービスを受ける側(受診時の自己負担分の支払い者でもあり納税者でもある) も当事者であり、税金を投入する政府・都道府県・市町村も当事者である。当事者として の自覚と相互のチェック機能があってこそ、成り立つ制度であるにもかかわらず、チェッ ク機能がはたらきにくい。

 そもそも専門家である医療・看護・介護事業者と非専門家である患者・被介護者との間 には極端な情報の非対称性があり、対等になれない仕組みになっている。

 この十年間に、GDPがほぼ横ばいであっても国民医療費は三割近く増えている。はたして高齢化だけが原因なのか。のちほど解明していくつもりである。
 ちなみに国民医療費四三兆円を財源別にみると、税金(国庫一〇兆九〇〇〇億円、地方 五兆六〇〇〇億円)が約四割、保険料(事業者九兆一〇〇〇億円、被保険者一二兆二〇〇 〇億円)が約五割、患者負担五兆円で約一割の構成になる。保険料といっても強制的に負 担するものに変わりないから、名前は保険料であっても実質は税金と同じと考えてよい (介護費については後述)。 サラリーマンであれば自分の給与明細を見て、所得税同様に徴収される保険料の負担額が重くのしかかっているのがわかるし、病気ひとつしなくても自営業者は住んでいる市区町村から定期的に(強制的な)支払い額が通知されている。

コスト比較で考える人工透析と腎移植

 医療費の国民負担の問題で、先ほど腎臓透析のコストについて触れた。透析患者三三万人に年間一兆八〇〇〇億円の医療費が使われているのだが、これは日本独特の実情であると認識しておいたほうがよい。つまりある面で不必要なコストが存在しているわけだ。腎臓移植手術をすれば、人工透析しなくてもすむからである。

 日本移植学会のHP「データで見る臓器移植」が公表しているデータのうち腎臓移植については、「上位五カ国(人口一〇〇万人当たり)」は、メキシコ七九人、スペイン六四 人、アメリカ六二人、オランダ五九人、フランス五四人であり、順位は書いてないが日本 一三人、五分の一ほどでかなり少ない。

 腎臓移植と人口透析をコスト面で比較してみよう。

 図表「透析と腎移植の月単価」によると、手術など最初の二カ月で五〇〇万円ほどか かる(患者は高額療養費制度が適用されるので自己負担は所得により異なるがおおむね八 万円以内)が、以後は透析の必要がないのでかかる費用は低額になる。いっぽう透析患者は月額四五万円の費用を死ぬまで使い続けるから、下図「透析と腎移植の医療費累積額」は十九カ月後に逆転している。人口透析の費用は二十カ月で九〇〇万円に達している。

 日本の腎臓移植は、年間一七〇〇件程度で微増の状態で推移している(アメリカは一〇 倍の一万九〇〇〇件)。うち生体腎移植が九割を占めている。日本移植学会のガイドライ ンがあり、生体腎の提供者は誰でもよいわけではなく、六親等内の血族、配偶者とその三 親等内の親族からしか受けることができない。臓器売買を避けるための規定である。

 残り一割は死体移植である。脳死または心肺停止後で、本人が生前に書面で臓器提供の 意思表示をしていて、また家族の同意が得られた場合にのみ認められる。死体移植による 臓器提供を「生体腎」に対して「献腎」とも呼ばれる。日本では「献腎」するドナーが一 〇〇人ほどしかいない。日本臓器移植ネットワークに登録している腎移植の希望者は一万 二〇〇〇人いる。待機期間が平均十五年ぐらいが相場のようだ。アメリカでは「献腎」が 一万を超えて「生体腎」を上回っている。

 こうした状態だから、日本では移植医療が選択可能なオプションになりにくい。

 腎臓の待機者に較べると、心臓は六〇〇人、肺は三〇〇人、肝臓は三〇〇人、膵臓は二〇〇人と少ない。手術がやりにくいだけでなく、生体腎移植のような手術ができないからだ。そういう意味で他の臓器移植に較べると腎臓は幾らかやりやすい。

 二〇〇六年に愛媛県宇和島市にある宇和島徳州会病院の万波誠医師が、ドナーである患 者の腎臓から小さなガン細胞を切除し摘出して、レシピエント(提供を受ける人)に移植 した。「生体腎」と「献腎」しかない選択に対して新しい「修復腎」という考え方を発明 した、きわめて合理的な現場感のある医師の先駆的な試みであった。ところが「密室での 病気腎移植」とメディアの集中攻撃にさらされた。日本移植学会が、ドナーに説明して承 諾したという説明が文書で残っていない、病院で倫理委員会を開いていない、などと批判 した。メディアは、人体を使った実験だ、と罵倒に近い論調だった。病気腎を移植したのだからレシピエントにガンが転移しているのではないかと疑った。
 
 だが実際に四年間で移植された四二例のうち、局所的に再発したのは一例にすぎずそれも移植由来のものとは証明されていない。

「〝悪魔〟の医師か〝赤ひげ〟か」(池座雅之著、NHK二〇一八年三月放映)によると、 ガンにかかっていても腎臓を全摘するのは「移植ありき」からではないのかという批判 に、万波医師はこう語っている。

「ガンがちいさくても、尿路とか腎盂とか、それから血管の周囲とかにある場合は、部分切除では技法的にむずかしいし、ガンを残してしまう恐れもある」

 したがって腎臓をいったん全摘せざるを得ない。その上で腎臓を冷し、冷水のなかで顕微鏡を使ってガンの部分を取り除く。そして修復腎移植に用いる。
二〇〇七年三月、結局、日本移植学会、日本泌尿器科学会、日本透析医学会、日本臨床腎移植学会の四学会が、修復腎移植を「現時点で医学的妥当性はない」と否定する声明を出した。

 この声明を受け、厚労省は同年七月、「病腎移植原則禁止」の通達を都道府県知事宛に出した。

 この問題には二つのオチがある。

 十年後、一転して、通達が覆ったのである。二〇一七年一〇月、厚労省の先進医療技術 審査部会は「病気腎移植」について、条件付きで先進医療として認めるとした。条件とは 「参加医療機関の倫理委員会」「レシピエント判定委員会」の他、日本移植学会と日本泌尿 器科学会から外部委員を入れた「修復腎移植検討委員会」の監視下でやれ、ということである。
 
 もう一つのオチは、そうであっても、最新の腎臓ガン手術は腎臓を全摘しない方向にある。万波医師が修復腎移植を手がけてからすでに十二年が過ぎ、医療技術は飛躍的なイノ ベーションのなかにあった。常磐病院の新村浩明院長は、「現在、医療用ロボット『ダ・ ヴィンチ』による部分切除が保険適用になり、きわめて精緻な手術のため修復腎のための 全摘はもはや前提にはならないのです」と断定している。

 万波医師の先端的な試みは、よってたかって否定されているうちに、医療用ロボット 「ダ・ヴィンチ」の時代へと移り変わっていたのである。

 どこかで見た光景である。一九六八年に日本で初めての心臓移植手術が札幌医大での和 田寿郎教授のチームで行なわれた。メディアは日本の医療が世界水準に達したといっせい にもてはやした。しかし術後八十三日目にレシピエントが死亡すると、風向きが変わる。 ドナーである溺死した大学生の脳死判定に客観性があったのか、など疑わしい点があった として刑事告発されたのである。ここでも万波医師と同様に、和田教授に対するメディア の集中攻撃、医学界からは嫉妬なのか何なのかよくわからない黙殺、脳死をめぐる倫理学 者や宗教学者たちの混乱がつづいて、日本の移植医療はこの躓きによって中断し、「三十 年遅れた」と評されている。

 チャレンジに多少の瑕疵があったとしても既得権益層がすぐに否定に走る、そういう体質を変えない日本であっては、医療・介護の改革もできない。先進国のなかで日本だけが ドナーが極端に少ないまま、生体腎移植は多少はあっても献腎移植がほとんどないという 事態に陥って、人工透析患者数の伸びを抑制することができない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?