戦いのなかで逃げる権利とは?平和ボケの日本で論じてもリアリティがない理由。歴史から学ぶために。
橋下徹(元大阪府知事)さんとウクライナ戦争について論争になった。
彼はなぜ逃げる権利が認められないのか、と主張する。
そもそも戦争中、しかもこちらが仕掛けた戦争でなく一方的に侵略されている場合、という前提で橋下さんは問題提起をしているわけではない。
橋下さんは、あたかも戦争一般のような前提で逃げる権利を主張しているのだ。
いまウクライナはロシアに侵略されている。ゼレンスキーが挑発したからいけないとか発端についてはいろいろ意見があるだろうが、どうであれ軍事を仕掛けたのはロシアである。
そこで逃げるとはどういうことか。ロシアの侵略に抵抗しなければウクライナは占領されてしまう。国家主権が奪われるのだ。戦わずに逃げるなら、戦いに敗北した結果の占領を容認するしかない。したがって逃げるという選択は国家を喪うことに間接的に加担する。国家は蟹の甲羅であり、甲羅がなければ人々はいかなる安全保障による保護も無い状態に置かれるだろう。
したがってウクライナ人にとって逃げるという選択肢はあり得ないのだ。
では戦争一般の話に戻ろう。
太平洋戦争の渦中で、死にたくない、できるなら逃げたいと考えた若者は少なからずいた。
僕は若者だったころ、戦中派の作家・安岡章太郎のエッセイを読んで、なるほど、と思ったことがある。
そのエッセイの要点をうろ覚えで説明しよう。
学徒動員で召集された安岡は、死なないためには自分の所属する中隊のなかで積極的に前のほうに行って撃つのは止めようと思った。もともと体力があって元気のいいやつはどんどん先頭に行きやすい。自分は大して運動神経もよくないから、さりげなく後方にいよう、それが自分の資質にも合致する。
そこで出来るだけ後ろのほうでもたもたしているという生き残り戦術を考えた。
ところが、である。ここからが問題で、戦闘中にできるだけ後ろに後ろにと逃げつつ戦うフリをしていたのだが、どんなに後ろに行こうとしても、結局、最後尾にはならなかったのだ。
なぜか。意識高い系が考えることなどたかがしれていたのだ。世の中にはただのドジもいれば、狡猾さにだけは長けている者もいる。ドジはどうやってもドジなので何もできない。意思があってできないのでなく、ただただできない。人生いつもビリを生きている。少し頭のよい者がドジのマネをしても決してほんとのドジにはなれないのである。つまり最後尾にはそれにふさわしい者が位置を占めている。
こうして安岡は、逃げるつもりで逃げられず、最後尾のドジたちを守らなければならない立場を生きるしかなかった。
逃げようとする者は考えるタイプであり、自分には大切なやりたい夢があるのではないかと悩みそのために生き延びようと目的を持っている。同胞を守る使命と自分の生きる目的との間に生じる葛藤を抱えている。そして戦ったのである。
橋下さんの逃げる権利の話は、あくまでも平和ボケ日本のなかでの話であり、ウクライナ戦争にはあてはまらない。
また我が太平洋戦争における体験者の話はいまの企業人にあってもリアルであり、なかなか身につまされるではないか。
我われはまだまだ歴史から学ぶことはたくさんあるのだ。