彼女

 濡れた窓ガラスの先に映る風景が、油絵みたいだった。
 私はイヤホンから流れるaikoのアルバム「彼女」を聴きながら、バスに乗って大学から帰っているところだった。天気予報が外れて突然の雨だったので、バスに乗ることにしたのだった。特に用事はなかったので、ビニール傘を買って、最寄りの駅まで歩いてもよかったのだが、ちょうど良い時間にバスが偶然来たので、一人ふらっと乗ったのだ。このバスだと、電車に乗らなくて済むが、帰るには一時間程バスに乗ることになる。まあ、音楽でも聴きながら乗れば良いかと思った。バスが到着し、バス乗り場に並んでいた列の順番にバスに乗り込むと、前から二番目の一人席が空いていたので、私はそこに座って、窓の方を眺めていた。
 私は、雨が降っているのを見るのが好きだ。雨が降るとみんな傘をさしたり、鞄やフードを頭にかぶせて雨に当たらないようにするその姿が何となく、可愛らしく見える。それに、雨の日は下を向いて歩いていても水溜りに空が映って見える。ぴちゃぴちゃと、水面にできる不規則な波紋も儚くて何となく好きだ。バスの中には勿論雨は降らない。バスの外は雨が降っている。バスという箱の中だけが雨から守られているような気持ちになって面白かった。バスが走り出し、窓の方をずっと見ていると、細かい雨粒が静かに下へ下へと落ちてゆき、またその上から新しく次々と雨粒が落ちてくる。その窓ガラスに落ちる雨粒と、窓の奥の風景が混ざって、見える景色がモザイク画や油絵みたいになっているのを見るのが、私はとても好きだった。
 そんなことを考えながらいると、ふと慎太郎君のことが頭に浮かんだ。今日は会えなかった。明日は会えるだろうか、などとぼんやりと考えていた。慎太郎君とは同じ学科というだけで、それ以外何の接点もなかったし、出会ってまだ三ヶ月ほどだったが、もっと昔から知り合っていたかのように妙に波長が合った。大学で会うと「おはよう」とか挨拶をするくらいだったが、メールはよくした。そうだ! と思い私は、暇だったので慎太郎君にメールすることにした。

 慎太郎くん、今日一緒に夜ご飯食べない? 今バスで帰っているところで、五時半くらいに駅に着くから、それ以降だったら何時でも大丈夫。

 大学ではそっけない感じの慎太郎君だったが、いつもご飯に誘ったり、誘われたりして、色々と話をできる仲だった。メールを送信して、三分後、返信が来た。

 うん。ちょうど僕も、五時半過ぎに駅に着くよ。何がいい? 

 返事を読んで、私と慎太郎君の関係は何なのだろうと、私はふと思った。友達? 友達以上恋人未満? それとも友達以下の何か? ご飯を食べる時は、その時ニュースなどで話題になっている時事的なことや、他愛のないことを話すだけの関係だった。何か共通の趣味があるという訳でもない。恋人になりそうな空気も感じたことはなかった。
 バスが終点に到着し、私はバスから降りた。雨はまだ降っていて、雨粒が大きくなっていた。傘を持っていない私は駅の地下へとつながる階段の入り口へと急いだ。鞄を頭に乗せて。
 「傘。」
 何? と思い、走っていた足を止め見上げると、慎太郎君が傘をさして立っていた。
 「えっ? もう着いてたの? びっくりした〜。」
 私は急な出来事にドキドキしてしまい、それを隠せなかった。イヤホンをしたまま目をぱちくりさせながら言った。
 「うん。少し早く着いて、バスって言ってたからここで待ってた。」
 慎太郎は落ち着いた、高くも低くもない声でそう言った。
 「で、何にするご飯? てか、イヤホンつけっぱだよ。何聴いてるの? 」
 慎太郎は続けた。
 ああ、ほんとだ。と言って私はイヤホンを外しaikoだよと答え「焼肉とかどう? 」と、私はまだドキドキしながら、パッと浮かんだことを言ってみた。
 「いいね。じゃ、前気になるって言ってたあそこにしようよ。安いみたいだし。」
 「うん、いいね。」
 私たちは歩いて五分くらいの焼肉屋へと相合い傘をしながら歩いた。私の心には、まだあの瞬間のドキドキの余韻が残っていて、とてもいつも通りではいられなかったが、平然を装った。
 「ねぇ、慎太郎君は好きな人とかいないの? というか、彼女とかいたことあるの? 」
 私は自分で自分の発言したことにびっくりした。勝手に口が動いていた。
 「ごめん、何でもないの。今のなかったことにして。」
 私は慌てて続けた。突然なんてことを急に言ってしまったのだろう。aikoを聴いていたせいだったのだろうか、分からない。
 「えっ。僕は林中のこと好きだけど。」
 慎太郎はさらっといつもの落ち着いた声で言った。
 「えっ? 」
 「あ、ごめん。僕、変なこと言っちゃった? 」
 「いや、全然変なことじゃないけど、今私に告白した? ってこと? 」
 「うん。そう、かも。こんな形になってしまってごめん。」
 慎太郎は手で頭をかきながら言った。
 私は突然の告白に更にドキドキしてしまい、挙動不審になってしまった。
 その後、二人は、何となく話すのを躊躇ってしまった。大雨の中、車の行き来する音と歩く人々の話声だけが大きく響き、その音は二人の沈黙をより引き立たせた。結局その後、何も話さずに焼肉屋の目の前に到着してしまった。
 「なんか、ごめん。帰る? 」
 慎太郎はおそるおそる訊いた。
 「いや、ここまで来たのよ? 食べよ。」
 私はもうドキドキしていなかった。五分ほどの間、初めてこんなに慎太郎君を近くに感じ、沈黙の間に気持ちを整理できたのだろうか。落ち着いて、答えた。
 二人は焼肉屋のドアを開け、お店に入っていった。
 私は、これまでより雨が好きになった。恋人になるには共通の趣味や話題が必要だと思っていたけれど、そうでもないのかもしれないと思った。これからどうなるかは誰にも分からないけれど、慎太郎君となら、何となく一緒に居たいと思えた。それだけで十分なのかもしれないと思った。今日の大雨のおかげだ。それから、私は雨予報の度に傘を忘れてみたり、aikoの彼女を聴いてみたり、バスに乗ってみたりするようになった。

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