分かりやすくも、分かりにくくも、言語

苦しい。
しんどい。
でも、「何が」わたしを苦しめているのかわからない。
こんなことはないだろうか。

生きていくうえで、漫然とした辛さがある。なんとなくしんどい。この気持ちは何だろう。

言葉に重きを置くわたしにとって、こんな言葉はただの逃げであることはわかっている。
わたしは今日も書く。自分を引き受けていくのは、今日も明日もこの先も自分でしかないから。自分の気持ちには、自分でしっかり蹴りをつける。

苦手な教科のどこが苦手か聞かれると言い淀み、挙句「全部」と答えざるを得ないような状況が、人生には多々転がっていると思う。放っておくと錆び付くブリキ人形のようなわたしの人生は、定期的にメンテナンスをするより他ない。その方法は人によって様々あると思うが、ことわたしにおいては「書く」ということがいちばんの対処療法になった。
ただ書き散らすだけなら、相手を想定しなくてもよい。相手の心象や反応を汲むことなく行うことができる。おそらくそれが発展し、自己顕示欲を「正しく」昇華させるものの類がTwitterなのだろう。1億総クリエイター時代の到来を後押しすることになったそれは、瞬く間に人々に伝播した。今でも世界のSNSの上位を占めている。

でもただ書き散らしているだけでは、プロではないのだ。相手がいてはじめて、プロはプロ足り得る。自身から生まれたやむにやまれぬ言葉たちが誰かに届いてはじめて、物書きは物書きとしてプロになる。だからここでひそひそとただ自身の満足のために書いているだけのわたしは当然、プロではない。けれど書いている。自分を自分たらしめる、やむにやまれぬ理由がそこにある、と信じているからだ。だからやめられない(そしておそらく、ほんとうは極端に趣味が少ないので、これくらいしかやることもない)。

言語化すると、気持ちが整理されると言う。
しかし整った言葉だけで、自身の全てが言い表せるとは思わない。だからどんどん書き続ける。言葉を綴ると、それはどんどん広がって、もう自分のものではなくなる。新たな解釈が加わり表現としては膨らんでいくが、何かを端的に言い表した、もっと言えば自分というものをピンポイントで指している表現ではなくなってしまう。自身の存在から生まれたはずの言葉は、徐々に存在からズレていく。この微妙なズレを埋めるために、また言葉を綴る。作家は永久に言葉を綴るしかない。実に不遇で、不幸な立場である。しかしそれでも書くのをやめない人のことを、わたしは尊敬している。

整理する、と言っても、自分の都合のいいように解釈することだけが全てではない。それはただのエゴだ。なんとか折り合いをつける、というのが正しいかもしれない。行き場のない思いを言葉でかたどることで、誰かの救いになれたら嬉しい。
けれどやっぱりいちばんは、自分のためで、それがどうしようもなく気分が悪く、そして心地よい。


新しいキーボードを買います。 そしてまた、言葉を紡ぎたいと思います。