そういう考え方もある

断捨離出来ないタイプである。

物も、人との関係性も。人から貰ったものは、どれだけ些細なメモであっても捨てることが出来ない。出来ることならずっと手元に残しておきたいし、絶縁することなく多くの人の傍に居たい。しかし現実、それは不可能だ。出会いがあれば、別れがある。使わなくなった物が押し入れの奥底に眠り、やがて忘れ去られていくように、人との関わりも、使わなければ切れていく。勿論意図的に切るようなことがなければ、いつまでも続くものだと考えることも出来なくはないが、友が旧友になり、恋人が元恋人になり、関係性の変化の中で、わたしはいつでも時に置いていかれそうになる。いっそ全部捨ててしまいたい衝動に駆られ、ミニマリストでも目指してみようかしら、と書籍を漁るが、わたしの答えはどうやらここにはない。

物が無くなっても、不便ではない。
人も、何かあった時に支えてくれる人がある程度周りにいれば、困ることは無いだろう。
頭では分かっている筈なのに、喪失をただ失うことという1点のみで考えて、どうにも悲しくなってしまう。人の記憶というのはいつだって曖昧で、覚えておこうと思ったところで、大抵の事は忘れてしまうのだ。ずっと忘れないようにしよう、と思ったことをどれだけ忘れないようにしても忘れてしまうことも悲しいが、それよりも、ほんとうは忘れてしまっても何ともないと分かっていることが、案外いちばん悲しかったりする。
そんな時、記憶を抱える現在のわたしの上で、過去の記憶の中で生きていたわたしと、未来の記憶の朧気になってしまったわたしが交錯する。時間軸が、一気に濃縮した気持ちになり、苦しさのうちに涙が零れる。
結局わたしは、何かを断ち切るのが得意ではないらしい。フットワークは軽いと思っていたが、そうでも無さそうだ。

つい先日読んだ本の中で、「殯(もがり)」という考え方を初めて知った。亡くなった人をすぐ埋葬するのではなく、一定期間遺体を棺の中で安置させることを言うらしい。
何故、そんなことをするのか。一説には死者の復活を願う中、腐敗や白骨化するなど完全に遺体が原型をなくすのを目の当たりにすることで、その思いを断つということがあるそうだ。更に、亡くなった人の祟りを恐れ、祟られないように時間をかけて鎮魂を行うという意味合いもあるとか。

復活を願いながらも、復活が怖いという気持ち。亡くなってからしばらくは、復活を願うものの、やがては鎮魂の気持ちへと移行する。
要するに、故人の死を受け入れるには、今も昔も変わらず、時間が必要だということなのだろう。

断捨離というワードはコロナ禍において再加熱した。昨年のゴールデンウィークの後、清掃業の方が各地で粗大ゴミの収集が追いつかず、音を上げていたニュースを思い出す。
やはりわたしはこれからも、断捨離出来るかと言われれば微妙だと言わざるを得ないだろう。しかし、目に見えるものを捨てたからといって、気持ちまでも急に振り切ることが出来なくても良いのではないか、と思うことが出来たら、少しは楽になった、気がした。

部屋は相変わらず散らかっている。
確かに、物は減らしたいしな……。
とりあえず、掃除からか。


「平成くん、さようなら」古市憲寿
平成と書いてひとなり、と読む彼は、平成時代の終わりに、安楽死を計画していることを恋人である愛に告げる。
何故、平成くんは自ら死を望むのか。愛は彼の告白を受け入れられぬまま、改元の時は近づいていた________

映像作品ではばんばん泣くのですが、本を読んで泣くことはあんまりない(思い返してみれば、そんなことは無いかもしれない)わたしが、久しぶりに泣きながら読みました。
まぁ私情も相俟っていたのかもしれない。何故平成くんが死を選ぼうとするのか、先が気になる展開と、決して交わることの無い2人の死生観が、ページをぐんぐん捲らせます

「これ以上、僕に欲を持たせないでよ」

2人が過ごしたかけがえの無いひとときが、凝縮して流れ込む感覚。平成くんの思いも、愛ちゃんの思いも、読み終わる頃には決して他人事ではないはず。
是非。


新しいキーボードを買います。 そしてまた、言葉を紡ぎたいと思います。