わたしには体力が足りない
何もかも、投げ出してしまいたい夜がある。
ひとり、ベッドに横になって見上げた天井には染みが多く、それがわたしの不安と、えも言えぬ焦燥感を引き立たせる。
どうも。久しぶりの文章です。
あっという間に日常が過ぎていきます。わたしの周りの環境も、色々と変わりました。時の暴力的なまでの速さに振り落とされないように必死でしがみつくしかできない、今日この頃です。
日常に殺されないようにしたい。
それが結構、最近の命題。
何をこうも更新頻度が落ちていたかと言いますと、これはもう言い訳以外の何物でもないのですが、パソコンが無い生活を余儀なくしておりましてというのと、慣れないことが色々続きましてというのと……というより、こんなにすらすらと言い訳してる暇があるなら書けよという事ですよね。昔から書くことくらいしか取り柄がなくて、なんなら今も誰かと喋るより紙やパソコンの文字に向かっていた方が気が楽で、生きづらさや苦しさを吐き出して唾棄して時にはお洒落に表現しちゃったりなんかして生きていきたいのに、何だか集中出来なくなっている日々。どこへ行っても頭を擡げる日常。日常。日常。
いっそのこと、生活というものを全て投げ打ってしまいたいと思う。けれど、均整のとれたわたし自身が、わたしをそうさせないだろう。幸福にも奈落にも極振りできないのは、わたしの悲しい性かもしれない。こうして今日もわたしは矛盾を抱えたまま生きていく。
何に向き合うのにも、体力がいるな、と思う。
自分のやりたいことを考えるのにも、世の中のことを考えるのにも、大切な人のことを考えるのにも。実際に身体を動かすことももちろんそうだが、思考を働かせるということにも、非常に体力を使う。そして、身体よりも思考する力を鍛えるほうが、よっぽど難しいと思う。芸術的感性も、文章も、使っていないと錆び付く(しかし千本ノックのように書いていたかつてのわたしは、それはそれで文章の拙さと独りよがりの苦しみに絶望していた。わたしはすぐ絶望する。そしてなんとか抜け出したいと言葉を連ねる一方で、どこかこの絶望的な状況が自らに相応しいと、楽しんですらいる。非常に面倒なやつである)。
考えるのには、ただひたすら考え続けるだけではなく、余白が必要だと思う。余白は新たな思考を生み出す。作品も然り。しかし受け手や作り手の心にも身体にも余白が無ければ、作品の余白は成立しない。
しかしわたしは余白が許せない。
というか、恐らく現代の人の多くが、余白を許せなくなってきていると思う。耐久力というか、余力がないのかもしれない。
電車が時間通りに来なければ苛々し、動画に差し挟まるスキップできない広告にうんざりする。映画の2時間が耐えられない人もいるらしい。確かにこうも時間に追われ、日々の生活に追われ、としていると、段々と視野が狭くなっていく自分を感じる。社会人、ひとり暮らしのあるあるなのだろうか。
わたしの敬愛する中村文則氏は、「文化も救ってくれる」と題して、こう述べる。
僕は常に空腹であるように言葉を求めて、その言葉を自分の中に入れ、そこから自分なりに考え、言葉によって自分を守るように生きていた。(中略)文化は、すべての人間に対して、平等に開かれている。商業ベースに乗った安易なものが溢れているからなかなか見つけにくい世の中だけど、自分を強く揺さぶり、救ってくれるようなものに出会えた時、もう一回生きてみようと思うことは、確かにある。
中村文則 『自由思考』河出書房新社 2019
わたしは高校生の頃、彼の作品に出会った時に、似た思いを味わったので切に理解出来る。再起を望む言葉。わたしにはそれが理想で、そして言葉といえばそれが全てだと思っている。言葉には意味や、感情が伴う。意味も感情も無い言葉は、それは言葉ではない。ただの音の羅列だ。
誰かに届く言葉を綴りたいし、話していたい。わたしがそう思うことができたのも、彼の作品に出会えたところが大きい。
最近は、自分の発する言葉が、誰かに届いているのか不安になることが多かった。無視されているとか、ハブられているとか、そういうことではない。何をしても虚無で、自分の思考に意味を持てなかったし、そもそも日々に忙殺されて、何かを本当に考えているのかすら怪しかった。
自分の言葉が誰にも届かない状態というのは、往々にして誰かからの言葉も自分に届いていないのだと思う。相互性を失った言葉が漂うのは心理衛生上良くないが、そんな言葉すらわたしの中には浮かばない日々が続いていた。余白が足りなかったのだ。何かを味わい、そして外に出すという行為。私にとって言葉は、摂取し、こうして書いて発信するという意味で、食事と排泄に近い。ちなみにわたしはごく稀に比喩ではなく本当に読書を食事の代わりにすることがあるが、エネルギーを消費するだけの非常に危険な行為なのでおすすめはしない。けれどそれが出来たら理想である。しかしそれができるときは、わたしはきっと、何もかも投げ出していると思う。それは思考の放棄なのでしない。思考の放棄はしない。したくなるし、する時もあるけど、その状態を許さないわたしが常にわたしを見ている。だから永続はしない。きっとこうして、意味の無い言葉を今日も綴っていくし、これからも気が向いた時に綴っていく。
……とにかくわたしには、体力が足りない。
体力が欲しいなと思う、今日この頃です。