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『日本の名機をつくったサムライたち 零戦、紫電改からホンダジェットまで』未来予測機能がない戦前戦中の航空機開発(失敗研究)

 ここで取り上げられている航空技術者は、堀越二郎(零戦)、東條輝雄(YS-11)、土井武夫(飛燕)、渋谷巌(呑龍)、内藤子生(富嶽)、糸川英夫(鍾馗)、菊原静男(紫電改)、土光敏夫(ジェットエンジン)、永野治(ネ20)、西岡喬(MRJ)、藤野道格(ホンダジェット)だが、内容的にノスタルジックな感覚でまとめられているのではない。根底に「歴史の転換期には歴史に学べ」という考えがあり、失われた30年と叫ばれる現代に向けて書かれたものなのだろう。
 しかし、戦前戦時中のエンジニアには、敵と戦う、という宿命があった訳だから、アメリカ、イギリス、ロシア、ドイツなど、他国のエンジニアの歴史も列挙する形で伝えなければ、グローバル化があたりまえになった現在では、現代に活かしにくい。

 土光敏夫(ジェットエンジン)、永野治(ネ20)、西岡喬(MRJ)、藤野道格(ホンダジェット)以外の太平洋戦争で活躍した戦闘機の設計に対する考え方には不思議な共通点がある。それは、ボーイング社がB29を開発したのは太平洋戦争がはじまってからで、その間、日本のエンジニアは誰一人として、大型戦略爆撃機が敵になると想像できなかった(未来の技術に対する予測機能がない)ということだ。B29は、オペレーション・ズリサーチにより、搭載する装甲機械のほとんどを捨て去っても、日本中をやすやすと空襲できた。なぜなら、インターセプターとして設計された飛燕や鍾馗などは、レーダー機能がシステムとして考えられていないため、B29を目視でしか捉えることができなかったからだ。結果、焼夷弾による夜間の攻撃で、日本列島は廃墟と化してしまった。
 もっと皮肉なのは、広島、長崎に投下された原爆の頭部には、核爆発高度を測定するための八木・宇田アンテナが搭載されていたことだ。八木アンテナ開発当時の1920年代に、日本軍では、敵を前にして電波を出すなど「暗闇にちょうちんを灯して、自分の位置を知らせるも同然」だと考えられ、重要な発明と見做されていなかったという。(広島の原爆ドームに展示されている原爆にはちゃんと八木アンテナがついている)

 私はここに列挙されている技術者の中で、糸川英夫氏にしか面識がないが、彼の章の最後に書かれている以下のことは、まさにそのとおりだ。

 100年を越す日本の航空史を振り返ってみても、糸川ほど最先端の研究を続け実績も残し、かつ変わり者だった研究者はほかにない。閉塞感、停滞感が漂い、特に科学技術分野などでは国全体としての勢いが失われつつある現代の日本にこそ求められる稀有なキャラクターなのかもしれない。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。