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『トヨタのイノベーションと糸川英夫のイノベーション』(5−1)長谷川龍雄と糸川英夫の人生変容

 シリーズ1『働き方改革のイノベーション』、シリーズ2『引いて考えると使命分析』、シリーズ3『組み合わせとオルタナティブ』、シリーズ4『試すとフィードバック』、と糸川さんのイノベーションを分析してきた。シーズン5では、別のアプローチでイノベーションを実現している例として、長谷川龍雄氏のイノベーションを比較することで、日本で生まれた2つのHow to Innovate(イノベーションの方法)を明確にしてみたい。

 トヨタのWebサイトによると、長谷川龍雄氏の経歴は次のように紹介されている。

 1916年2月、鳥取市生まれ。1939年、東京帝国大学航空学科卒業後、立川飛行機(株)(現 立飛企業(株))に入社。1946年トヨタ自動車工業(株)に入社。主査としてパブリカ、トヨタスポーツ800、カローラ、セリカを担当。その後製品企画副室長、室長としてトヨタ車の開発を統括。1982年専務取締役を経て退任。2008年に92歳で逝去

 長谷川龍雄氏が勤めた立川飛行機のルーツは株式会社石川島飛行機製作所で、これは東京石川島造船所(現IHI)が中心となって出資し設立された飛行機会社だ。その後、陸軍の依頼を受け中等練習機を開発していたが、当時の大手である中島飛行機が開発した一式戦闘機「隼」の大規模な移管生産が行われていた。独自設計の高高度戦闘機(インターセプター)であるキ94を開発することになるが、これを設計したのが、長谷川龍雄氏だ。

 立川飛行機の流れを汲む東京電気自動車(たま電気自動車)は、日本初の電気自動車を開発した。後にプリンス自動車工業となり、スカイラインを開発し、日産自動車に吸収されていった。キ94を開発した長谷川龍雄はプリンス自動車工業には参加せず、競合のトヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)に入社することになる。

 このように日本の飛行機屋は全員、GHQの航空禁止令で職を失ってしまったのだ。ゼロ戦の開発者 堀越二郎氏は、1959年代から60年代にかけて、同じ飛行機の道を歩み、オールジャパンで取り組んで開発したYS-11の基本設計に携わった。

 長谷川龍雄氏は自動車へと人生を変容(Life Transformation)し、糸川さんは、脳波測定器からバイオリン、そしてロケットへと人生を変容(Life Transformation)していった。


トヨタに入社

 長谷川龍雄氏は、トヨタにきて、航空機の設計ではあたりまえの強度規定も、安全率もないことに驚いたという。そんないい加減な技術ではやる気がなくなってしまうと、自動車技術会において、同じ飛行機屋だった東條輝雄氏(YS-11のPM、三菱自動車社長)とともに、強度設計や設計マニュアルの必要性を訴え、委員会を立ち上げて規定づくりを進めた。それほど、飛行機技術者と自動車技術者の技術格差は大きかったのだ。

 創業者の豊田喜一郎氏を退陣に追い込んだ労働争議でも、長谷川龍雄氏は技術部の職場闘争委員長となり、組合活動の先頭に立っていた。給料は下げられても仕方ないが、人員整理は絶対に認めるわけにはいかないというのが彼の主張だ。
当時のトヨタは、自動車を作るという情熱はあったと思うが、そのために必要なHow to Innovate(システム、仕組み)がなかったのである。それを飛行機業界から持ち込んだのが、長谷川龍雄氏だ。

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