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『新約聖書2』スティファノの功績について客観的に触れて欲しかった(世界の歴史)

 新約聖書の使徒言行録から手紙と黙示録までが「新約聖書Ⅱ」としてまとめられている。「Ⅰ」で私が好きな人物はマクダラのマリア(ヨハネによる福音書による)で、「Ⅱ」において好きな人物は使徒言行録の最初に方に登場するステファノだ。
 ステファノをペトロたち12使徒と比較すると人物が桁違いで、まるでイエス・キリストの再来でないかと思ってしまうのだ。もちろん使徒言行録の著者であるルカの意図もあるのだとは思うが、石を投げられて処刑される以下のくだりなど、ゴルゴダの丘の出来事とそっくりだ。

「『主イエスよ、私の霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わさないでください』と大声で叫んだ。スティファのはこう言って眠りについた。サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。」

 つまり私の仮説はこうだ。

 ステファノの死後、「サウロの回心」があるが、サウロ自身はペテロたち12使徒と違いイエスと面識がない。ひたすらに原始キリスト教会の人たちを弾圧しエルサレムに連行していたが、このステファノの殉教により、噂に聞いていたイエスの殉教の姿がまざまざと再現されてしまったのだ。これはサウロの心のなかに「なぜそこまでの信念が、というWHY」を植え付け、それが回心の原動力となり、ダマスカスで回心を決意させた。

 遠藤周作の2部作「イエスの生涯」、「キリストの誕生」の後者ではステファノを、エルサレムのユダヤ人の最も崇める神殿を侮辱し、これを否定するという罪を犯したが、ペトロをはじめとする使徒たちは神殿を重んじ、神殿を詣でるグループで、イエスの処刑の日と同じようにこの迫害の起こった日のペトロたちは、戸を閉ざし、息をひそませ、塁が及ばぬよう怯えてながら匿れていたのだろうか、と12使徒と比較し書いている。

 つまり、ステファノの死は臆病だったペトロなどの使徒グループの衝撃を与え、原始キリスト教会をユダヤ神殿の礼拝から離れさせ、神殿よりもイエスを選ぶという態度を誘発し、ユダヤ人だけを相手にしていた原始キリスト教が、ユダヤ人以外の異邦人に浸透していくエネルギーになったのだろう。(ステファノの死は西暦32年、イエスが処刑され2年後)ステファノの生き方(殉死)は、たよりない12使徒はもとより、イエスと面識のないパウロにまでも信仰を与えたことは注目すべきことだ。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。