俺たちの村田兆治
ロッテを応援していた第一次ピークは1989年だった。
1988年の最終戦、歴史に残る「10.19」で日本中から(近鉄に勝たせてやればいいのに…)と思われてたロッテの方を応援していた私は当時14歳で、14歳にとって自分の推しチームが日本中から憎まれるという状況は「だったら俺らこそが応援しないと!」という中二心をさらに加速させた。
かくしてロッテ熱が上がった私は1989年の開幕戦を見に行った。
開幕戦は西武球場のライオンズ戦。
ライオンズはこの時点でリーグ4連覇していた黄金期で、前年は日本一になっていた。
当時のライオンズクリーンナップは秋山・清原・バークレオ。
ピッチャーは工藤・渡辺久信・郭泰源・松沼博久。
強いはずだよ。
対するロッテのクリーンナップは愛甲・マイクディアズ・高沢で、ピッチャーは村田兆治、荘勝男、牛島、園川、小川博。
まあまあいいような気がするのに、結果的にこの年もロッテはダントツで最下位だった。
振り返ると個人成績はまあまあいいのにチームとしてはべらぼうに弱い。それがこの時代のロッテだった。
そんな西武とロッテの開幕戦。
絶対勝てないんだろうな、と思ってたらマサカリ兆治が完封した。前年日本一チーム相手に。
これはうれしかった。
やっぱり兆治だよ兆治!サンデー兆治!
ちょうどこの数年前、村田は当時はまだ今のように成功例がなかった右肘靱帯再建手術をアメリカで行い、そこからリハビリを経て復活したことでカムバック賞を受賞、「奇跡の男」「不死鳥」みたいな扱いをされていて、本も何冊か出ていた。
私はそのうちの一冊を読んで見事に影響され、中学校で使っていたノートに「人生先発完投」とか書いたりしていた。
ライオンズとの開幕戦に勝った村田は通算勝利数を199として、プロ野球の一流選手の条件とされる「名球会」入りの条件・200勝まであと1勝と迫った。
おお兆治、200勝まであと1勝だよ!これは見に行かないと!
…と思ってたが兆治が200勝をかけて登板することになった翌週の日曜日は、塾のテストがあった。
今だったら200%塾を休んで見に行ってたと思うが、当時は「なんだよ…」と言いながらトボトボ塾に行った。
午後に塾が終わって家に帰ってくると、兆治の200勝がかかった近鉄戦がテレビ中継されていた。
当時のパ・リーグはたまに西武戦がテレビ中継されるぐらいでロッテなんてまず中継されなかったから、これは興奮した。
兆治ー!と思ってテレビをつけたら、兆治が近鉄打線にめった打ちに遭っていた。
「これは10.19の意趣返しなのか」と思ったが、よくよく考えると当時は普段から近鉄打線にはめった打ちに遭っていたので通常営業だろう。
だいたいこうなるとロッテはシュンとなって惨敗するのだが、この日はなんとしても兆治さんに200勝を!というチームの強い気持ちが出たのか、打線も近鉄投手陣に食らいつき同点に追いつく。
しかしそこから勝ち越せない。
200勝がかかった兆治もそこから近鉄打線を抑え続け、試合は延長戦へ。
結局この試合は兆治が延長11回に勝ち越されて負けてしまい、200勝はならなかった。
それにしても11回完投って!
ちなみに近鉄は継投で4回から吉井が投げてるのですが、吉井そのまま6イニングも投げてる。
完全試合をしてても8回で交代される令和の時代から見る平成元年、いろいろおかしい。
しかしその完全試合をしたピッチャーを育てたのが吉井というのが歴史の綾です。
兆治200勝・2ndチャレンジは一週あいだを開けて30日の日本ハム戦で行われることになった。
肩の休養もあっただろうけど、「なんとしてもホーム川崎球場で」という球団の思惑もあったと思う。
4月30日はゴールデンウィーク中で、私はこの試合を川崎球場に見に行った。
すると川崎球場が嘘だろ、ってくらい人であふれている。
いつ行ってもガラガラなのがこの球場の良いところなのに、これには面食らった。
やたら長い行列に並んでダラダラ進んでいくと、チケットを買った内野自由席はもう満員だった。
ふたたび「嘘だろ」って思う。
しょうがないので内野の階段脇の、座席でもなんでもない通路に座って見ていた。
今だったら2秒で係員が来て「はい座らないでくださいー」と無機質に言われるんだろうが、当時の川崎球場は喧嘩でも起きない限り、観客への規制は緩かったように記憶している。
まさに超満員で熱気にあふれた川崎球場。
そこで兆治が抑え、打線が爆発して200勝達成!だったらみんなハッピーだったと思うが、この試合でも兆治が日本ハム打線にポカポカ打たれ、打線も日本ハムの誇るトレンディエース・西崎の前に沈黙した。
この試合で覚えてるのはショートの森田がタイムリー悪送球をしてみんなが同じタイミングで「森田~!」と叫んだのと、その森田の応援歌がなぜかサッポロ一番のCM曲だった、ってことで。
森田、パッとしなかったなあ…。
2回失敗した兆治200勝チャレンジの3回目は翌月の山形で行われた日本ハム戦。
この試合でようやく勝ち星をあげて、無事兆治200勝を達成した。
ロッテファン的には「なんで川崎で投げさせないんだよ!!」と思ったが、あれは地方球場の方がリラックスして投げられるだろう、みたいな配慮だったのかもしれない。
結局この年兆治は7勝しか挙げられなかったけど、防御率2.50で最優秀防御率のタイトルを獲った。
ようするに「兆治は抑えてるけど打線が沈黙」みたいな試合がいかに多かったか、というのを証明している。
この年兆治40歳だったけど、直球もフォークボールも全然キレていた。
水島新司「あぶさん」にもちょいちょい登場していた記憶がある。
翌年1990年も41歳になった兆治は当たり前のように開幕投手として投げて勝利し、以前ほどではないにせよそこそこコンスタントに投げ、10勝8敗2セーブの成績を挙げた。
当時のロッテの環境では十分すぎるくらい立派な成績だが、「自分の思うようなボールを投げられなくなった」みたいなことを言って引退した。
「えええっ!!兆治辞めるの!?もったいない…」というのが当時のファンの感覚だった。
引退試合を見た記憶がないのは、事前に引退試合情報をキャッチできなかったか、高校の中間テストに重なってたからだと思う。
私は兆治の最盛期を知らない。
MVPを獲った日本シリーズも見ていない(その年に生まれました)。
なので本当に現役最晩年しか見ていない。
あの時代のロッテは話題がなく、花もなく、成績もパッとせず、たまに「プロ野球ニュース」で取り上げられたと思ったらディアズの乱闘シーンだった…とかそういう時代だった。
そんな時代にあって、200勝投手である兆治がチームにいたことは希望でしかなかった。
兆治は野球に対して実直で努力家である反面、「頑固」「融通が利かない」とも言われていた。
キャッチャーの袴田とノーサインで投げてた、というのが伝説になっているが150キロの直球と落差のあるフォークボール、どちらかわからない状態で球を待ってた袴田のストレスは相当だったろう。
(フォークのときは投げる直前に見えるボールを挟む指でわかった、という声があるが見えない時だってあったろう)
登板後はアドレナリンが出るから寝付けず、試合後にチームのコーチやマネージャーと雀卓をよく囲んでたが、振り込んだりして熱くなると年上のコーチに対しても麻雀牌を投げつけていた…という逸話を前に愛甲がYouTubeで喋ってたが、あ~兆治ぽいな~という感じだった。
なのでちょっと前に報道された、空港で職員に暴行云々…という報道が出たときも「あ~兆治やっちゃったんだな~」と思った。
ピッチャーは失点したときだけ責められるんだよね。なあ兆治。ねえ益田。
あれから30年くらい経って、熱が上がったり冷めたりしながら、今も私はロッテを見ている。
2022年のロッテは「佐々木朗希だけが希望」みたいな一年で、それはあの1989年の「村田兆治だけが希望」の一年と少し似ていた。
あの時代、ロッテに兆治がいてくれてうれしかった。ロッテファンの誇りだった。
それだけは伝えていきたい。
ありがとう兆治。
俺たちの誇り、村田兆治。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?