どうぶつの森をプレイせずに「飽きた」という話

「あつまれどうぶつの森」
2001年4月14日NINTENDO64用ソフトとして発売された「どうぶつの森」
その系譜に連なるどうぶつの森シリーズ最新作がNintendo Switch用ソフトとして発売され、もうすぐ2ヶ月が経とうとしている。

満を持して発売されたシリーズ最新作の売上本数は、どのシリーズ過去作の生涯売上本数をもすでに超えており、それに呼応するように任天堂の株価も右肩上がりであった。(投稿時点では決算発表の影響か下がり始めている。)
SNSではゲーム発売前から新たな情報が出るたびに盛り上がりを見せていたこの作品は、その期待を裏切らない進化と完成度をもって、コロナ禍を跳ね除ける勢いで売れていった。

かくいう私もシリーズの大ファンで幼少の頃初代どうぶつの森をプレイしのめり込み、今作もゲーム発売前から楽しみでならなかった。SNSでの盛り上がりに参加はしなかったものの同じような気持ちを胸に秘めていた。

だが私の期待は、世間の期待通りという形で裏切られた。

結果的に世間とは真逆であった私の期待の話をする前に、本作を含めたシリーズ作品の概要を私なりに説明しよう。
「いや知ってる知ってる」という人も、我慢して飛ばさず読んでみてほしい。

「どうぶつの森シリーズ」は、主人公が現実世界と同じように流れる時間の中で、虫取りや魚釣り、人の言葉をしゃべるどうぶつたち、または他プレイヤーとの交流をしながら過ごすスローライフゲームである。
これだけ聞くと、張り合いのないなんて退屈なゲームなんだと思うのだが、このゲームには与えられた1つの目的が存在する。
ローンの返済だ。

新天地に無一文で越してきた無計画な主人公は、たぬきの商人が売っている家をローンを組んで買うのだが、そのローンはなんと無利子無期限。
釣った魚や捕まえた虫、掘り出した化石や木になるフルーツなどをたぬき商人に買い取ってもらい、そのお金でローンを返していく。
これがこのゲームに用意された目的である。

もちろん無利子無期限なのだから返さなくても良い。
現実世界ではそんなうまい話はあるわけがなく、ローンを返さないにしても生活のためのお金が必要になるためお金稼ぎは必須。
しかしこの主人公はお腹も減らなければ喉も乾かない。もちろん代謝もないので風呂に入らなくても体は清潔そのもの。
暮らす上で必要なものは一切ないのである。無一文で越してくるのも納得だ。

もちろんその他にも(明確ではないにせよ)目的は存在する。虫や魚、化石、絵画を博物館に寄贈してコレクションを充実させたり、家具の配置の美しさを評価してくれるコンテストのようなもので高得点を目指したり、それを目指すかどうかは人によって様々である。

そして私が思うこのゲーム最大の特徴は、目的に向かうだけのゲームではないという所だ。

目的に向かうにせよ向かわないにせよ、ゲームの中では現実世界と同じ時間が流れる。
要するに時間によって発生する様々なイベントが存在するのだ。

例えば自分の誕生日、もちろん人語を操るどうぶつたちが祝ってくれる。
例えば正月、年末のカウントダウンから連続して夜通しお祝いムードに包まれる。
例えばクリスマス、例えばハロウィン、例えば七夕…
人間は自分一人だけ、という寂しい生活をイベントが彩ってくれる。

もちろん彩りはイベントだけではない。どうぶつたちもそこに存在する。
どうぶつとの交流もこのゲームの根幹となる大事な「彩り」だ。このゲームは本来このために作られていると言っても過言ではない。

とここまでが、私なりにかみ砕いたこのゲームの概要だ。

さて、本題に戻らせていただこう。
なぜ最新作は私の期待とは違ったものだったか、という話だ。

結論から言うと、7割はお前らのせいだ。
これを読んでるお前だよ、わかってんのか。

私はやり込んだのは初代(e+)おいでよの2作だけだが、曲がりなりにもこのゲームに本気で向き合って、本気でプレイしていた。
ローンを完済し、図鑑のコンプ、シリーズ家具の収集など、小学生とは思えないほどやり込んだ。
だが、それはどうぶつの森に向き合った結果であり、私の中には「このゲームの『攻略』はこういうものだ」と確信できるものが存在した。
ゲームソフトの向こうに存在する制作者の魂を感じながらプレイできているという確信は今でも消えない、とても楽しかった。

だが、今作において世間はどうだ。

島民ガチャとはなんだ、リセマラとはなんだ。
どうぶつたちはこのゲームのメインコンテンツでありながら、攻略には一切必要のない効率の外側に存在するコンテンツだ。
このゲームに向き合っていた私からすれば、どうぶつとの出会いは一期一会で、だからこそ自分の島に住んでいるどうぶつに価値があるのだと思わざるを得ない。
それを見た目の良し悪しで選別し、一期一会の出会いを作為的に作り出して「やっと出た」などとのたまう。
お前はこのゲームを何だと思っている。虫や魚だけでなくどうぶつまでコレクションの対象なのか。

企業運営の攻略サイトをみればユーザーのそのような考え方が見え透ける。
攻略サイトはユーザーの求める情報しか載せない。当たり前だがその方が効率的にアクセスを稼げるからだ。
ゲームの理解と楽しさを深める「攻略情報」はユーザー運営サイトであるwikiのほうが詳しい。「攻略情報」はアクセスを稼げず手間がかかるだけだ。

そんな攻略サイトはこのゲームをスローライフゲームだと分かっていないサイトばかりに見えて仕方がない。ということは、ユーザーがそういう楽しみ方を求めていないということなのだ。
現実と同じ時間が流れる中で、自分の選んだ楽しみ方をする。そういうゲームであるはずではないのか。
本来主目的ではないストーリーの最速攻略なんてものがこのゲームの攻略だと思っている。(私のような例外を除いて)
このゲームはその過程を楽しむもののはずなのに、だれもかれもが結果だけ求めているようにしか見えない。

今はネット社会、SNS時代でゲームを最大限楽しむのにゲーム外の付き合いが必須だ。それはスローライフゲームでも変わらない、私もそれには賛成だし、他のユーザーと共にこのゲームを楽しむつもりでいた。
実際あつまれどうぶつの森には他のプレイヤーと一緒に遊ぶための手段が用意されている。

すこしTwitterを見るだけで皆こぞって「(私から言わせれば)このゲームを楽しんでいない」話を楽しそうにしている。
楽しみ方を強要したいわけではないので、「お前たちは間違っている」とは言わないが、旅行券で新しい島民を探しに行ってお目当てを連れ帰る「島民コレクション」をプレイしているようにしか私には見えないのだ。

私は比較的他人に左右されやすく、こういう話を目にするとこれはそういうゲームなのだ、というイメージが強くなってしまう。
その結果、そういうゲームなら別にもうやらなくていいや、と思ってしまったのだ。

残りの三割はこのゲームのシステム自体に問題がある。

島クリエイト?とやらはMinecraftでいいのだ。
どうぶつの森のグラフィックでそういうことがしたいというユーザーの意見は分かるが、こういうことは外伝作品でやってほしい。
(私のどう森像の中では)正統シリーズの最終到達点として用意されているべきコンテンツではない。
マリオメーカーのようにそれ専用のソフトを作るべきだ。どうぶつが生活している自然が豊かなのどかな環境で、人が自由に地形を作り替えるゲームではないはずなのだ。

この機能を攻略サイトやSNSなどで目にした私が、ゴールがこれならやらなくていいや、となるのはこの記事の今までの流れからすると明白だろう。
何も考えずにのんびりとした生活を送りたいのであって、この島をどぐされたぬきの指示に従って支配したいのではない。
無人島開拓という過程は楽しいと思うのだが、その結果「今まで開拓ご苦労様!もう全部好きにしていいよ(笑)」みたいな機能をどや顔で出されても、じゃあ私は何故あんなに橋を架ける場所を考えたのだ?となるだけである。

このゲームの制作陣までもが過程を尊重しなくなったのだ。

私の尊敬する人物であるプロゲーマーのウメハラはこう言っていた。
「自分がゲームの中で成長していれば、そのゲームに飽きることはない」
この言にならうと、どうぶつの森とは本来いつかは飽きるゲームなのだ。対戦ではないこのゲームは自らの成長に限界がある。

そして私は知ってしまった、このゲームで出会うどうぶつ達は他人にとってはただのコレクションでしかないのだと、その住人と育んだ交流の過程はただの好感度稼ぎに見られるのだと。そして自分の島を開拓しても、その過程はすべてなかったことにされるのだと。

自分の楽しみたかった成長は、このゲームにおける成長ではないとされることがわかってしまった今、
私はプレイすることなく、このゲームに飽きてしまった。

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