「真似る」⇒「まねぶ」⇒「学ぶ」
先日「東京日記」という題材の一部をワークショップでやりました。
その時の講師から頂いたお言葉がどんな人でも大事だなと実感したのでまとめてみます。
どんなところに行ってもその場所に合わせた正しい苗を植えて育てるのか、はたまた自分の苗を植えるか、大きく分かれます。
作者が書いた台詞を自由に表現するのか、作者の思い描いた人物にするのか
永井愛さん(東京日記の作者)から『私が死ぬような思いで書いた台詞なんだから』という言葉があり作者が一言一句全てに神経を張り巡らせて一つの作品に書き上げたのだから、役者は与えられた台詞を辿って作者の意図を正確に演技にしなければならない、自分の役を煮て喰おうが焼いて喰おうが自分の勝手、はわがままなんです。
一見表現者の自由のようにも感じれますが、それだったら誰でもいいんです。
この中の登場人物はそうゆう人じゃない。
ダメな役者の呼ばれる者で、違う場所に植樹してしまいそこから枝葉(演技)を伸ばして繁らせても、本来生えるべき所じゃない場所から出ている演技はイチイチ“物言い”がつき、自分の生理で演技をしてしまっている
結果、こういう人の稽古は演技の稽古でなく、正しい位置への植え替え作業になる
それって自分が勝手に持ってきた苗を都合のいいように育ててるんです。
そこに合えばもちろん育つかもしれないけど、結局その苗の育て方しか知らない
そして、 正しい場所に植樹できても表現手段が乏しければ枝葉の無い幹で、小説、映画、舞台、あらゆる表現芸術をインプットする必要がある。
見た通りにしてみる「真似る」⇒「まねぶ」⇒「学ぶ」。表現者に一朝一夕には身につなかいことを今回は痛感致しました。
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