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オレの二十代

LINKというバンドが新しいやつを出すというニュースがでた。

今となっては知らない人も沢山いると思うが、というかLINK自体を知らない人もいるかと思うが、2005年ぐらいから2、3年間そのバンドでオレはギターを弾いていた。
元々、横浜横須賀パンクキッズだったオレはLINKのライブは普通に見に行っていた。
ドクターダウナーの前にやっていたバンドの時に初めて対バンしたけどその時は何も話さなかった。
確か善行Zだったと思うけどLINKは楽屋にも一切居なかったの覚えてる。
その時オレは高校卒業したばかりでまだ10代だったような気がする、違うかも。
ライブ観に行ってたしCDも持ってるぐらい普通に好きなバンドだった。
練習しているスタジオが同じだったこともありそれ以外はどういう経緯か全然覚えてないけどギターボーカルの柳井くんと頻繁に飲んだりしていた。
確かそれが21、2歳ぐらいか。もう覚えてないけど時系列で考えると多分そのくらい。
そのぐらいで当時やっていたバンドは解散して前から手伝っていた左廻というバンドのギターになった。
それと同時にwarningというバンドのベースにもなった。
両方20年ぐらい前。
そんでなんか分かんないなけど、どっかのライブハウスに柳井くんが遊びに来た時、かぼちゃ屋かな?猪股、リンクでギター弾いてよ、と言われ、お、いいよ、やるやる〜、って感じでヌルッと入った。
基本的にLINKめちゃ好きなので曲は全部弾けるから曲覚える問題とかはなかった。
しかし入ってみたら次のリリースはメジャーらしい感じをなんかメンバーとスタッフの会話で察知した。
オレにそれを言えよ。
って言ってもオレはやること変わらないのでどうでも良いとは思ったけど
その時ドクターダウナーも普通にやっていたのでライブとかレコーディング以外のプロモーションとかで時間割きたくないので肩書きはサポートになった。
なので当時のアー写とかインタビューとかにオレは一切いないけど、まあ音楽的には普通にメンバーだったと思う。
22歳か23歳ぐらいだったと思う。
パンクスプリングのオープニングアクトやった(もう一個のオープニングアクト9ミリだった)し、カウントダウンジャパンも出た。
今だったら、お〜事務所とレーベル頑張ってくれた、ありがと〜!って思うけど
当時は何も分かんないので、オレたち、イケてる?みたいな感じになりそうだった、が、オレはならなかった。
こんな事は長くは続かない、いい加減明日のこと考えたほうがいい、とオレの中の清志郎が言った。
この経験を、ドクターダウナーに活かすぞ〜おらおら〜!と思いリンク辞めた。
それを活かせるまで何年もかかったけど。
そして結局活かせなかったけど。
そんなオレの二十代前半の音源を聴いてください。


そしてスタジオジャストの関内店がオープンだったので行ってきた。
能見台のジャストには毎日ぐらいの勢いでいた時期がある。
10代の頃からずっと入っていたスタジオだった。

みんな生きてるしみんなやってる。

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