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ある代議士(広瀬徳蔵)の日常

 20年も前の新聞記事ですが、当時どんな気持ちで取っておこうと思ったのか、私自身も覚えていませんが、議員の方々の行動が話題になっている令和の今、じっくり読んでみようと思いました。

日本経済新聞 2005(平成17)1月1日

*記事を太字で写し、その後に私の感想などを書きました。

夜更けの読書
 白川 静(しらかわ・しずか=中国文学者)

 私が広瀬徳蔵先生の事務所に玄関番として住み込んだのは、大正十二年(1923年)の暮近い頃で、先生は翌十三年の選挙で代議士に当選された。私の最初の仕事は、その選挙で、下使いに走り廻ることであった。小学校を出たばかりの少年にとって、それは幾らか過酷な体験であったが、真剣勝負に近い快適さがあった。

  ✍️ 広瀬徳蔵という人を私は知りませんが、wikipediaに項目があります。年表によると、大正12年は9月に関東大震災が起こっていて、翌日に山本権兵衛内閣成立、暮には山本内閣総辞職、翌大正13年に護憲三派内閣成立(第1次加藤内閣)とあります。世界に目を向けると、すでにヒットラー、ムッソリーニが登場しています。
  ✍️議員ではなく代議士という言葉が使われていて、調べたところ、『参議院は戦前は貴族院であって、衆議院議員が一般国民を代表して、国民に代わって議事に携わることから「代議士」と呼ばれている。代議士という名称は原則、衆議院議員を指す。』学校で習ったのかもしれませんが、全く気にしていませんでした。「代議」という言葉の意味することは大切です。いつも意識しなければと改めて思いました。議員を「先生」と呼ぶことがあるけれど、これは適切でしょうか?
  ✍️小学校を出たばかりで社会へ出て働く---落語のさだ吉を思い出しました。ラジオの全盛期、落語がよくラジオで放送されていました。🎵タイラバヤシかヒラリンか、イチハチジュウのモークモク---------🎶 子供の頃、訳も分からずまねしていて、今でもリズムに乗って唱えられそうです。調べてみたらこれは「平林(ひらばやし)」という題だったのですね。こんな話です。『さだ吉は、働いているお店の旦那さんか番頭さんに「平林(ひらばやし)」と書かれた書状を届けるよう言いつかったのだけれど、歩くうちに「あれ、なんて読むんだっけ」(漢字は読めないし、記憶があやふやという設定)となり、道ゆく人に尋ねたら、教えてくれるのはいいのだが、それぞれ違うことを言う。「平」がタイラ、だったり、ヒラ、だったり、イチハチジュウ、だったり5、6個のヴァリエーションができて、それを全部唱えて歩いて行く』そんな話です。他の落語にもさだ吉が登場するので、さだ吉とは丁稚奉公の少年を代表する名前のようです。落語の世界ではなく、現実に丁稚奉公した少年たちは、白川静さんが書かれているように、きっと「過酷さと真剣勝負に近い快適さ」を体験しながら成長していったことでしょう。

 先生の生活は、その選挙運動の延長のような多忙さであった。弁護士として、府・市会の議員として、また代議士として、その上夜の会合の続くことも多かったが、先生はそれらをすべて終えて、夜おそく帰宅される。私がその日の来客・電話・郵便物などを報告、先生はそれらを処理されると、またしばらく読書をされた。連日、深更に及ぶことが多かったが、その間百数十編の漢詩を残されている。私が辞してからのち、万国議員会議に代議士団長として渡欧されたときも、詳細な旅行記を大阪朝報に寄せ、また多くの調査報告を作るなど、不休の活動をされた。

  ✍️ 広瀬代議士は、読書、漢詩を作ることが気分転換になる、あるいは、意識して気分転換をするよう心がけておられたのでしょう。近年でも俳句を詠まれる代議士、文学に関わる研究をされた官僚の方がいたと聞いたことがあります。現代でも、皆さんそれぞれのやり方で、本業に没頭して過熱しがちな頭を鎮め、英気を養おうとしておられると思います。お酒はかえって神経を高ぶらせてしまうのではないでしょうか。
  ✍️ 公用で外国を訪問した際には、調査報告を作成することはもちろん、公務の合間に見たその国の人々の日常にも目を配り、それを旅行記として一般の人々に伝えるという、少なくとも二種類は書けますね。

 先生は昭和八年(1933年)五月、衆議院予算委員長の重職にあり、途中病気のため急逝された。私はその前年京都に赴いて、教員となる準備に専念していた。教員資格をえて中学に勤め、夜更けて帰宅してからも、往時の先生を回想して読書を続けた。少年の時の経験が、私の一生を支配している。

  ✍️昭和八年(1933年)の3月は日本が満州国を不承認とされ、国際連盟を脱退するという大きな出来事がありました。広瀬代議士の日常はどんなものだったでしょうか。読書、漢詩を作るような心の余裕、時間を持てたでしょうか。
  ✍️ 白川静さんのことは改めて紹介するまでもない漢字研究の第一人者(それ以上の方だけれど良い形容が見つかりません)です。その白川さんの少年時代にこのような出会いがあった事を知り、今の時代にも代議士と、たとえば秘書など近くで支える人たちとの間でこのような出会いがきっとあるに違いないと思うと同時に、あってほしいと願わずにいられません。徳蔵という名前の中にある『徳』。『徳』を大切に思うならば『金』に頼る必要はないのではないでしょうかと、令和六年の今、議員の行動を見て強く思わされました。

*年表は「情報の歴史」監修 松岡正剛 1990年 NTT出版株式会社発行を参照


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