エンゲルス「マルク」について

稲生鉄生(いのう・てつお)
(2021/12/05の学習会テキストに少し加筆)

■まえおき
 前稿のマルクス三昧(反・斎藤幸平論)で、晩期マルクスと晩期エンゲルスの間に断絶を持ち込むことによって大切なものが見失われるという指摘をしました。
 その一例として、エンゲルスの「マルク」という論文への注目を促したいと思います。
 一八八二年一二月にドイツ語版『空想から科学へ』の付録として発表され、八三年には『ドイツの農民。彼はなんであったか、なんであるか、またなんでありうるか?』という農民向けパンフレットとして刊行されています。
 マルクス「ザスーリッチへの手紙」が八一年三月、『共産党宣言』「ロシア語版序文 マルクス・エンゲルス」が一八八二年一月、それに連なる時期の同領域についてのエンゲルスの論文ですが、この「マルク」はあまり注目されていません。
 『空想から科学へ』の一八九二年英語版への序論(『全集』第19巻五四二頁~五六五頁)では、
「付録の『マルク』は、ドイツにおける土地所有の歴史と発展についての若干の基礎的知識を、ドイツの社会党のなかでひろめる意図で書いたものである。これは、党が都市の労働者を同化させる仕事がかなり完成の域に近づき、農業労働者と農民を獲得するべきときだっただけに、とりわけ必要だと思われた。この付録をこの翻訳のなかにおさめたのは、すべてのチュートン種族に共通な土地保有の原形とその衰退の歴史は、イギリスではドイツでよりもさらにわずかしか知られていないからである。私は、最近マクシム・コヴァレフスキーが提唱した仮説にはふれないで、テキストをもとのままにしておいた。この仮説によれば、耕地や草地がマルクの成員たちのあいだに分割されるよりもまえに、それらは(いまなお存在している南スラブのザードルガが例証しているように)数世代をふくむ大きな家父長制的家族共同体によって共同計算で耕作されていたのであるが、のちになって、この共同体の人数がふえて共同計算で経営するには動かしにくくなりすぎたときに、分割がおこなわれたというのである。コヴァレフスキーの言うことはおそらくまったく正しいであろうが、しかしこの間題にはまだ決着がついていない〔sub judice〕。」(同、五四四頁)
と、付録の「マルク」の意図について述べています(コヴァレフスキーの説についても興味深いものがあるのですがここでは触れません)。この「英語版への序論」も、のちにドイツ語に翻訳されて「史的唯物論について」と題されて『ノイエ・ツァイト』に掲載されるように独立の価値あるものとされています。
 しかし、「マルク」は、『空想から科学へ』の日本語訳の文庫(岩波文庫、国民文庫)では省略されています。岩波文庫に至っては、いま引用した英語版序論の「マルク」に言及している箇所すら省略されているのです。エンゲルスは入門書として広く読まれていた『空想から科学へ』にこそ必要だとして、収録したであろうにもかかわらず、(岩波文庫では)専門的すぎるとして省いてしまっているのです。
 ただし、大内力編『農業論集』(岩波文庫、一九七三年五月)に「マルク」は収録されています。なおこの本には「ザスーリッチへの手紙への回答」も草稿も含めて収録されています。――多分この文庫は絶版にはなっていないと思います。

■「マルク」注目点
 何故、「マルク」なのかは、先に引用した「序論」に、「党が都市の労働者を同化させる仕事がかなり完成の域に近づき、農業労働者と農民を獲得するべきときだっただけに、とりわけ必要だと思われた。」とあるように、そして「マルク」の書き出しでも、「人口の優に半数がいまなお農耕で暮しをたてているドイツのような国では、社会主義的労働者は、そして彼らをつうじて農民もまた、今日の大小の土地所有がどのようにして成立したかを知っておく必要がある。」とその意義を述べている。

 全自由民による土地の共同所有を基礎とした重層的なマルク共同体を歴史的構造的について述べた後に、
「土地の共同所有を基礎としない、中世の多数の自由な協同団体〔Genossenshaften〕、とくに自由な同職組合(ツンフト)の規則も、マルク制度をまねてつくられたものである。」
と出てくる。この「中世の多数の自由な協同団体〔freien Genossenshaften〕には注が付けられていて「たとえば、都市領主にたいする都市市民の抵抗団体である誓約共同体、遍歴商人たちの遍歴共同体、遠隔地商人たちのハンザ共同体など。」となっている。
 中世の協同団体がマルクから受け継いだものとは、自由と平等である。平等については制度的なものとして、やや具体的に触れている。一方、自由についてはどうか。
 自由の内容は変わっている。マルク共同体の自由は、親族関係による編制と土地の共同所有・共同耕作という個が共同体の臍帯のもとにある段階の即自的自由であった。中世の協同団体の自由は、権力が発生した後の、抵抗であったり遍歴であったりという権力からの自由、対自的自由である。
 この違いを意識しておくことが「マルクの再生」(高次の復活)の把握につながる。

 エンゲルスによって、農民リーフレットとして発行されたさいに、書き加えた結語にあたる部分で、こう書かれている。
「では、どうすればよいか?――マルクを再生させることである。だが、昔の、時代おくれの形態においてではなく、若がえった形態においてそれを再生させることである。小農民の共同体員を大経営と農業機械使用とのあらゆる利点にあずからせるだけでなく、さらに、農耕とならんで、蒸気力または水力を使用する大工業を、しかも資本家の勘定でではなく共同体の勘定であわせいとなむ手段をも彼らに提供するような仕方で、土地共有制を復活させることである。」、と。
 「昔の、時代おくれの形態においてではなく、若がえった形態において」とは単に「大規模な農耕と農業機械の利用」という技術的側面にとどまらない。ここでは「資本家の勘定でではなく共同体の勘定であわせいとなむ手段」としか述べられていないが、労働者の共同性、その後の歴史のなかでソヴィエトあるいはレーテとしてその萌芽を見せた形態、すなわち政治支配をも自らの共同の下に置いての、自由な協同労働の実現形態――これが、即且対自的という意味での絶対的な自由――と掴むしかないのである。

 マルク的自由の昔ながらのではない「高次の復活」のためには、第一の否定のもとで新たな共同性を築きつつある都市労働者の「援助」が不可欠であるという、ここでのエンゲルスの指摘は、ザスーリッチへの手紙や『党宣言』ロシア語版序文に通じている。
「農村共同体が資本主義的生産の肯定的な諸成果をすべてわがものとし、自己の〈おそるべき〉激烈な急変を経なくてすむことができるのは、資本主義的生産が農村共同体と時を同じくして存在するというまさにそのことのためである。ロシアは、近代世界から孤立して生存しているのではない。それは、もはや東インドのように外国の征服者のえじきではないのである。」(「手紙 第一稿」、一八八一年二月~三月、『先行する諸形態』国民文庫、九五頁)
「ロシア革命が西欧のプロレタリア革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら」(『党宣言』「ロシア語版第二版序文」、一八八二年一月)
 この「歴史的発展段階の同時存在」の及ぼす相互作用は、方法論としては、工場制度において、「時間的継起の空間的併存」として掴んでいたことと同等であり、世界市場の分析において欠かすことのできない視点である。
 「その本来の同盟者である労働者の援助のもとに」「彼ら(農民)を農村そのもので工業に従事させることが必要である」を、現代史が経験した「労農同盟論」や「農工両全」(毛沢東)に終わらせないためにも留意する必要がある。ミール共同体がスターリンによる農業の上からの「集団化」に利用されたという指摘もある。
 都市労働者の下で発達する、自立した近代的個人に踏まえた共同性(団結)こそが肝腎である。ほんものの自由で平等な連合をつかみとるために!

 余談だが、共同体の最初の機能が裁判権であるということは、「国家の眠りこみないし死滅」の過程で、立法権や行政権に比べて後の方まで残るのも裁判権、紛争の処理なのかと想像力を刺激して興味深い。
 さらに、「最初に個々人の私有財産になった地所は、宅地であった。あらゆる人格的自由の基礎である住居の不可侵性は、遊牧民の天幕車から、定住農民の丸太小屋に移り、しだいに家屋敷地にたいする完全な所有権に変わった。」という指摘も示唆的である。

 ついでに、ヘーゲルになじみがない人のために、即且対自的=絶対的(an und für sich)について付け加えておこう。。自由について、何々からの自由という限りではまだ何々にとらわれている自由であって悪無限的であるという。絶対的(即且対自的)自由とは、真無限的な自由であって、それは「他のもとにあって同時に自分自身のもとにある」ことであるとする。
 その即且対自的をプロレタリアの階級形成で例示すると、即自的階級は、まだブルジョアジーと経済的にのみ対立している時期、対自的階級とはブルジョアジーとの間で政治的・階級的に対立している段階であり、即且対自的階級とは、「政治支配を獲得して、国民的階級にまでたかめ」られたプロレタリアート(『共産党宣言』)であり、この「プロレタリアートの政治支配」とは『ヘーゲル国法論批判』でいうところの「民主制」を引き継ぐものである。
 「自由で平等」の自由がこのように、即且対自的自由であり、自らの共同による自らの(労働の)支配であるということは、自治という民主主義の根本が、単に「政治」だけではなく社会の根本である「労働」にまで貫いかれているということである。つまり、即且対自的自由とは、デーモス(民衆)によるクラトス/クラティア(支配)として民主主義(democracy)そのものなのである。

■追加 des genossenschaftlichen Reichtums の訳語
 『ゴータ綱領批判』の三の最後に出てくる「共産主義のより高度な段階」での「協同的富〔des genossenschaftlichen Reichtums〕」について、斎藤幸平は『人新世』で、このゲノッセンシャフトは、マルク協同体の共同所有の研究からマルクスが新たに取り入れた知見が、影響している可能性があり、そうであれば「協同体的富」と訳すべきだろうとしていた。
 これについて、「反・斎藤幸平論」では、簡単に、「翻訳語をこねくり回すだけて何かが生まれるわけではないでしょう。」(〔一〕(4)追伸:コモンとしての管理)として、訳語を細かく吟味することはしなかった。今度、少し原文と照らし合わせてみると、斎藤の解釈はともかくとして、この「協同的富」という『全集一九巻』の訳語自体は確かに奇妙である。
 この箇所の近辺には、たびたび genossenschaftlich, genossenschaftliche, genossenschaftlichen が出てくるが、いずれも「協同組合的」と訳されている※。例えば、「Innerhalb der genossenschaftlichen…Gesellschaft」は「…協同組合的社会の内部では」(一九頁)なのに「des genossenschaftlichen Reichtums」は「協同的富」(二一頁)と訳されているのである。
 マル・エン選集刊行委員会の訳を使っている国民文庫では「協同組合的社会の内部では」(国民、四二頁)、「協同社会的富(国民、四五頁)、西雅雄訳の岩波文庫は「協同組合的社会の内部においては」(岩波、二六頁)、「協同組合的富」(岩波、二九頁)となっていて、同じ訳語を当てているのは、いちばん古い西雅雄訳だけである。
 訳語を変えた理由として、後者は「共産主義のより高次な段階」にあるとされているから、とも考えうるが、しかしマルクスは同じ言葉を使っているのであるから、意訳をするのであるならば、原語を並記するなり、片仮名ルビを振るなりの配慮があってしかるべきところだろう。
 なお、ゴータ綱領批判との関連でよく知られている、エンゲルスのベーベルへの手紙(一八七五年三月一八日~二八日)に「ドイツ労働者党は、鉱業と農業に全国的な規模で協同組合的生産〔genossenschaftlichen Produktion〕をおこなうことによって、賃労働の、したがってまた階級区別の廃止に努力する」とあることにも留意。

追記
その後、
田上孝一「『ゴータ綱領批判』におけるGenossenschaft概念について」2016-12-20
https://tdu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=31
という論考があることに気付いた。――正確に言えば、以前にダウンロードしていたのに、後で読もうと思って、そのまま忘れていた。

■「マルク」や「ザスーリッチの手紙 草稿」に含まれている共同体の歴史については、もっと本格的に論ずるべきだと思いますが、ずいぶん前の、アジア的国家論についての考察も、仕上げられないままに残っています。そろそろ決着を付けなければと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?