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CDMは名案か?

ミャンマー国軍がクーデターを起こし、国の全権を掌握しようとした時、多くの公務員は、市民不服従運動(CDM: Civil Disobedience Movement)を行って抵抗した。
実際に行政を担っている彼らが出勤せず業務をしないことで、国家としての機能を麻痺させて支配者の思いどおりにはさせないという運動である。
 
独裁者を倒す手段として、この方法を考え出し提唱した者は、異国の先人であることはわかっているが、今回のミャンマーのクーデターに対して広がったCDMは、誰か特定の指導者や提唱者がいたわけではなく、おそらく公務員たちが自発的に起こしたものであろう。
その現象に対し、これはCDMであると外部の識者が後から説明付けて、その呼称が浸透したものと思われる。
 
過半数どころではない。おそらく動ける公務員のほとんどは、他の市民と共にデモに参加して不服従をアピールした。
そして、多くの外国に住む者たちは、彼らの行動を称賛した。
私自身、非暴力のままで相手を弱らすことのできるこんな手段があったのかと感心したものだ。
 
ところが、その武器を持たぬ市民に対し、放水などではなく実弾を発砲して射殺するという暴挙に、軍は出た。
けれども、それによって市民のデモや不服従運動が沈静化することはなかった。
ここが、一つの潮目だっただろう。
 
私は、武器を持つ相手に対してもなお、丸腰で対峙する市民の勇気を讃えた。
多くの外国人も同じ心情だったようで、彼らのデモを支持する寄付金は止めどなく集まり膨れ上がっていった。
けれども、軍の暴力行為は一向に収まらず、死者数は増えていくばかり。
 
やがて私は、これは違うのではないかと疑問を抱くようになった。
寄付金は負傷者の治療費にも当てますよと優しさを示してはいるものの、逆に言えば、手当はしますので安心して戦ってくださいと言っているようなものではないだろうか。
出征を留まらせる方向に支援金をつぎ込もうとしていた団体があっただろうか。
 
先の大戦を経験した者は、血気盛んで無鉄砲な若者に対して、よく言ってたものだ。「命を粗末にしてはいけない」と。
 
もはや、その世代の方々の大多数は亡くなられ、今は、戦争の実体験のない者たちの間で、実感のないまま議論が交わされている状況である。
 
軍による銃撃がアクシデントではなく計画的な狙撃だとわかった時点で、我々は、部外者だからこそ「まずは自分の命を守って」と冷静に呼びかけるべきではなかったのか。少なくとも我が子にはそう言うはず。
 
けれども、無責任にも、狂気の狙撃手に立ち向かわせるような賛辞を送ってしまったのだった。
それに煽られた若者の何名が命を落とされたことだろうか。
 
収まることのない軍や警察の狙撃や逮捕に対し、やがて公務員の中でも対応が分かれていった。
 
外野の者たちが不服従運動を称賛し支持することで、実際の当事者である彼らの間で、そして職場の中で、一体どのような状況が起こるのか、我々は、どこまで想像を働かせることができていただろうか。実際に湧き上がるであろう彼らの心の葛藤に思いを寄せての称賛だっただろうか。
 
外野の支持者の希望通り、引き続き職務復帰を拒んでいる者はおり、さらには国民統一政府(NUG: National Unity Government)に加わり、さらには、反国軍の市民武装組織、国民防衛隊(PDF: People’s Defence Force)に入隊する者もいる。
 
一方、自身や家族の命を守るため、日々の糧を得て生き延びるために職場への復帰を決めた者も多くいる。内戦状態が長引けば長引くほど、復帰を選ぶ者は増えていくだろう。
 
民間人の場合は、軍が社長ではないので、仕事を続けるか辞めるかが軍への忠誠を誓うか誓わないかの判断材料とはならない。
 
けれども、公務員の場合は政権が社長のようなもので、その政権を軍が掌握している現状においては、職務復帰イコール軍への忠誠、職務放棄イコール不服従となる。まさに、一世一代の二者択一を一人一人が迫られることになったのである。
 
こんな軍の下でもまだ業務を続けるのか否かで、先日まで仲間との集いの場であった職場を、目に見えない壁が真っ二つに分けてしまったのだ。
抵抗することは素晴らしいとした我々の称賛は、彼らを、そんな針のむしろの上に座らせ、昨日までの同僚と袂を分かつような場面を作ることに寄与したのである。
 
十分な資産を持っているかどうか、どのような身内がいるか間柄はどうか、家族を持っているか独身かなど、自身を取り巻く環境も、一世一代の二者択一には関係しただろう。
その結果として、信念を貫いて闘いを続ける者と命を守るために元いた場所に戻る者とに分かれたのだが、どちらの選択も決して間違ってはいない。誰も責めることはできない。
もし、誰かの命を奪ったなら、その時には、あなたは間違っていると言わせてもらおう。
 
職務復帰した公務員でも、心から軍を支持している者は、ほとんどいないだろう。
親しい者に対しては、生きるため家族を守るために働いてはいるけど、ここ(ハート)は違うんだと言ってはばからない公務員はたくさんいる。
 
おそらく心底軍を支持している者は、軍人の家族と、市中撹乱の密命を受けて恩赦により釈放された元囚人ぐらいではないだろうか。
 
この二者択一には、あまり注目されていない別の大きな要素も関わっている。
公務員の中でも、職務の内容がゆえに元々CDMには参加しなかった者が多くいるのだ。
それは、例えば医療従事者や消防士、さらには水産試験場の養殖の担当者や使役動物の飼育者や獣医師など、つまり、人も含めた生き物の命に関わっている人たちである。
おそらく、責任感の強い者ほど職場に居続けたに違いない。面倒を見ている命を見捨てることなど、そう簡単にできるものではないのだ。
 
本当は、そこに警官もいるべきだが、彼らだけは、命を守るためではなく殺すために職場に留まった。恥を知るべし。
 
日本でも、農家や畜産家や養殖家などの主な第一次生産者には定休日などなく、毎日誰かが必ず世話をする。動物園に定休日はあっても、動物たちは365日食べて動くのだから。
そうした命と向き合う世界では、一日でも全員が職務を怠ったなら、大量の命を見殺しにしてしまう。救命救急士なども然り。
 
我々もコロナ禍は経験したが、命を預かる者や生き物を育てている者からすれば、リモート出勤だのCDMだの、どこの世界の話をしてるの、って言いたいところだろう。
かつては、夏休み中でも、学校で飼っているウサギやニワトリの世話には当番を決めて登校していたものだ。
 
ところがである。我々も加担したこのCDMという巨大なトレンドの中では、生命に関わっているそのような者たちに対しても、それが公務員の仕事である限り、イコール軍の支持者として非難するのだ。
相手がエッセンシャルワーカーであろうと容赦しない。物事の裏側も起承転結も見ず、思考停止状態で十把一絡げに公務員を続けている者を非難する。同調圧力とは怖いものだ。
 
公共料金や自分の持ち家にかかる固定資産税なども、国軍を潤すだけだからという理由で支払いを拒む者もいるという。
もはや、どこまでが信条で、どこからがどさくさ紛れの悪乗りなのかわからない。
 
現在、戦況のほうは、各地の少数民族独立軍とPDFによる反国軍武装勢力のほうが奇襲に長けているようで、各地で狙撃が頻発し、兵士や警官が殺されている。
戦々恐々としているのは彼らのほうで、逃げる者や辞める者も多く、徴兵も難しくて兵士の数は減り続けていると言われている。
 
それに対して、国軍は戦闘機により空から潜伏地まるごと居住地まるごとを破壊し殺戮して反撃をする。そのようなパターンの繰り返しとなっている。
 
反軍政を支援する西側諸国も、旅客機を誤爆して多くの民間人が犠牲になった事故が過去にあったことから、どの国の紛争に対しても地対空ミサイルは供与しないことにしている。
賠償の点からも、民間人に対して間違いが起こっては困るのだ。
そのような状況の中、「地対空ミサイルでなくても◯◯砲なら戦闘機も撃ち落とせる」などという会話が、ミャンマー国内外の外国人の間でも交わされたりする。
 
あまりにも戦闘が長引きすぎて、もうみんな感覚が麻痺しているかのようだ。
これは人類の本性であり宿命なのかもしれないが、争いが長引くと、戦闘そのものが目的となってくる。
PDFも各地で小さい部隊に分かれ、元々あった大規模な少数民族軍も含めたミャンマー全国にある独立軍の数は、現在160を超えていると言われている。
 
少数民族軍の中でも、徹底抗戦しているもの、停戦中のもの、国軍に加担するものなど対応は様々である。
要は、彼らにとっては国家などどうでもよく、自分たちの民族の自治を守ることが唯一の目的であって、そのためには、自分たちに有利になると見るや、どちら側にでも着くのである。
 
PDFの部隊同士でも、非難の応酬が増えてきている。
NUGやPDFの主要な幹部は外国にいるが、「あそこのPDFは全然武器を買っていない」「集めた寄付金を外国にある持ち家やビジネスに使っている」「あそこには寄付するな」「本当に現場で戦っている我々にこそ寄付金を」とか、寄付金の争奪戦が起きているのだ。
戦争のビジネス化である。
 
ミャンマーでは6月から新学年が始まる。
今年は、去年の三倍は生徒が学校に帰ってきていると言われている。
それでも、まだ過半数はいっていないのではないかとみられている。信頼できる統計の発表はないが。
 
ゆとりのある家庭では、民間の塾やリモート学習などで勉強を続けさせている。
国民の殆どが心の中では反軍政なので、そうしているほうが世間体もよく安全でもある。
 
けれども、生活にゆとりがない者が、それを続けることは難しい。
三年もの未就学は、あまりにも長すぎる。
貧しい人たちから徐々に子どもたちを公立学校に通わせ始めている。世間の目は気になるだろうし、PDFからの攻撃も怖いだろうが。
 
事実、6月の新学年からは学校に行きましょうとネットで呼びかけた地方の公立学校の先生が殺されるという事件も発生している。
他にも軍政を支持するような言動をした者や反軍的な動きを密告した者が反軍政の者に殺されたという例は多く、中には人違いで殺されてしまったという悲惨な事件もある。
 
更に怖いのは、軍が自作自演でそのような惨殺をやり、PDFがやったと撹乱している可能性もあるということだ。
政治絡みの凄惨な事件が起こると、必ず軍とPDFは、相手側がやったと主張し、真相はわかないまま市民は疑心暗鬼の中で暮らすことになる。そして、いつか軍の自作自演に自分も巻き込まれるのではなかろうかという不安にさいなまれる。
 
例えば、公立学校に通うスクールバスを何者かが爆破し、PDFの仕業だ軍の自作自演だと非難の応酬となる可能性もなくはない。
当初PDFのターゲットが兵士や警官だけだったのが、直接的間接的に軍を支持している民間人にも及んできていることは確かなのだ。
 
このように、今のミャンマーの状況は、ますます悲しく混沌としたものになってきている。
ミャンマーの国民に対する我々の支援や称賛は、ミャンマー国軍を倒すためにはこうしてほしいと願うゲームプレイヤー的な欲求の表れではなかったのか。どれほど当事者たちの人生や心の苦しみを慮っての言動だっただろうか。
外から母国の民主化を支援している日本在住のミャンマー人にも、袂を分かつ当事者たちの痛みはわかるまい。
 
非戦闘地域が増えてきても、平和が戻りつつあるようだと錯覚してはいけない。それは、命を守るために停戦を選択しているのであって、政治的には何も解決はしていないのだから。
 
引き続き国際社会は、国軍の説得、矯正を諦めてはならない。
 
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