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誰のための命か

7月の半ばぐらいから、ヤンゴン管区内での爆破や狙撃の頻度が増えてきた。
この状況を日本にいる友人たちに伝えると、いまだに兵士たちは民衆を襲っているのかと、みんな顔を曇らせ憂いてくれる。
そこで、いやいや、そうではなくてと、改めて実情を伝えることになる。

毎日のように頻発している発砲発破沙汰のほとんどは、軍や警察を標的にした民主派武装組織による一撃離脱なのだ。今やヤンゴンでは、攻守が逆転していると言ってもいい。

国民統一政府(NUG: National Unity Government)が抱える武装組織、国民防衛隊(PDF : People’s Defence Force)は、各地の辺境にいた少数民族独立軍と連合してどんどん力を付けていき、戦術レベルがアップした民主派兵士たちが主要都市での攻撃作戦に戻ってきているようで、事実上、Attack Forceとなっている。

ただでさえ7月は、アウンサン将軍が暗殺された「殉教者の日」があるザワつく月ではあったのだが、民主活動家ら4名に対して、30年以上執行されていなかった死刑が強行されてしまった。殺ったのは、いまだ国民からも他国からも承認されていない軍による暫定政府である。

その報道があった日には、ミャンマー国営放送局にロケット弾が撃ち込まれて2名が亡くなった。
そして、その数日後には、ヤンゴン市街地東部のボータタウン町区で区長が狙撃された。逃げる区長を追いかけて3発命中させ、身体不随の状態にさせているという。

国営放送局は、今や軍の言葉をそのまま流すだけの存在で、当然報道内容は、死刑は正当、PDFはテロリスト、というスタンスで、区長は、かつて軍に情報提供して、区内に潜伏するPDFメンバーの殺害に加担している。
この2つの狙撃は、仲間を殺されたことへのPDFの復讐であったことは、声明などなくとも、みんな分かっている。

PDFも強くなったものだと、一連の都市部での奇襲の一環として受け流してしまいそうになったが、ちょっと待てよと。これは、局面の大転換かもしれないと思えてきた。

PDFは軍や警察だけをピンポイントで攻撃する、と言われていた。けれども、国営放送局や区長は、軍の手下であることには違いないものの、軍の施設でもなければ兵士でも警官でもない。
力を付けるに伴って、標的も拡大しつつあるということか。

それに、区長を狙撃したのは、人が集まる市場に面したアパートが立ち並ぶ白昼の通りで、流れ弾が一般人に当たっていてもおかしくないシチュエーションだった。
革命のためには、多少の犠牲があってもやむを得ない、ということか。

街には人々が行き交い、商店も市場も賑わっていて、一見、コロナ禍以前と変わらない平穏な日常が戻っているかのように感じてしまうが、いつ、非日常の殺傷沙汰が身の回りで起こっても不思議ではないという状況になっている。
それでも多くの市民は、PDFはよくやっている、民衆が犠牲にならないようにうまくやっていると、称賛を惜しまない。

2022年7月ヤンゴン

地方での戦闘でも、地上戦ではPDFと少数民族独立軍の連合軍が優勢になってきていると伝えられている。ただ、空からの攻撃は防ぎようがないので、国軍が、どれほどの空軍兵器をロシアや中国から調達できるかが戦況に影響してくる。

その前に民主派連合軍が勝つのではないかと分析する専門家もいるそうで、地対空ミサイルなども含む大量の武器を民主派に供与することこそが、最も犠牲者を少なく早期に内戦を終結させる手段であると、外国からの軍事支援を望む者は多い。
実際に、一部の日本からの寄付もそちらに流れていて、寄付者も納得しているということになる。

確かに、それで国軍を倒すことに成功し、とにかく今の最悪の状況からは脱することができるかもしれない。
けれども、武力で武力を潰せるという成功体験をした者たちが、その後、平和な国造りに協力し合えるとは到底思えない。戦いによる解決は、新たな戦いの歴史を生むだけ。
そうして繰り返されるのは、その時代に生きている若者たちから命を落としていく、ということ。

この戦いを続ければ、もう一息で軍を倒せる、戦争は終わる。
その分析は正しいかもしれない。
けれども、その戦いの最前線に立つのが、なぜ若者でなければならない?
この疑問に対する答えは、いろいろと聞こえてくる。

何よりも彼らは、誰かに強制されているわけではなく、自らの意志で立ち上がっているのだからと。
それならばその意志を尊重して、あの子は死ぬかもしれないと思っても止(と)めないの?
本当に彼らだけの意志なの、激励は同調圧力ではないの?

未来を生きるのは若者たちなのだから、君たちの未来は君たちが決めなさい、ってこと?

若者は機敏で、体力も頭脳も優れているから兵士に向いている?
彼らの五体満足は、死ぬため殺すために授かったものではないはず。

年寄りは運動神経も鈍ってて戦場では足手まといになるだけだから…都合の悪いときだけ、何を調子のいいこと言ってる。

まだ家族も持っておらず社会的責任も少ないお気軽な立場だったら、戦死しても身内や社会への影響は少ない、むしろ貢献できるじゃないか、ってこと?
人間としての営みを、まだ半分も体験できていない者たちから先に命が奪われていく…それで正しいの?

子孫を残して社会的貢献もしてきて、人としての役割を徐々に成就して歳を重ねていく。そうした体験を経た年配者たちから先に命を召されていくというのが、自然の摂理からしても人間の道理からしても真っ当ではないのか。
そして、若い者には、「君は、自然に与えられた生きるべき時間をまだまだ消化していない、生きなさい」と諭すのが先輩の役割ではないのか。

年寄り自らが爆弾を背負って突撃するというのなら、戦争を肯定するのもまだ分かる。
けれども、自分に死ぬ覚悟がないのなら、少なくとも死にに行こうとしている者は止(と)めるべきではないのか。そして、どうすれば武力を使わずに解決できるのか、考え抜くべきではないのか。

ウクライナのゼレンスキー大統領が、ある作戦からの撤退を決断した際、一番大切なのは兵士の命だ、と言った。
ものすごく腹が立った。どの口が言ってるのかと。大勢の兵士を戦場に送り込んで何人も死なせておいて、今頃何を言ってるのかと。

もう、ここに論点を絞ってもいい。
なぜ、若者が戦場に行くのか。
なぜ、それを止(と)めないのか。
自由なご意見をお待ちしています。

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