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いのちびとメルマガ(104号)

『その時、その場所で、いのちを支えるを貫く』
(2020 .9号より)

 Kさんは、小学校教諭として、自閉症、ダウン症、障がいのある子を受けもった。
 二年生の子が脳腫瘍を発症した。集中治療室の五分だけの面会時間に、毎週クラス全員が綴ったメッセージを病室で読んだ。八千羽の鶴を届けたが、旅立った。
「その子は『学校に行きたい』と言った。学校は生きる力、どんな子も教育を受けるべきです!」。ご主人のドイツ赴任に伴い、十三年の教諭生活を区切りとした。

 ある日、娘の理央子さん(当時14歳)は膝がパンパンに腫れあがり大学病院に緊急搬送された。慢性骨髄性白血病、救命方法は骨髄移植だけだった。
「ドイツでは、二十四時間面会可能、付き添い家族にも食事や宿泊施設が準備されている。それぞれの専門職が子どものために動いてくれるのです」。骨髄移植に備えて、日本に帰国した。

 日本での入院生活は、ドイツとは全く違っていた。面会は一時間のみ。手作りスープを持参すると「持込はダメです。みんな我慢してもらっています」と言われた。ある子は、「メロンパンが食べたい」と言うと、看護師の返事は「治ったらね」。その願いも叶わず亡くなった。「医師も看護師も良くしてくださいました。でも病院の規則はおかしい。一人ではダメ、親の会を作りました」
 理央子さんは、旅立った。「自分の子どもが死ぬなんて―。あれで良かったのかと、自分を責めました…」

 死別直後のことは、今もよく覚えていない。偶然、新聞の社会事業大学の編入学の募集案内を目にした。「ちょっと世の中に出てもいいのかなぁ」と思い、医療福祉を学んだ。病気の子どもを支援するとき、日本では、家族・病院や学校の人・ボランティアが担った。「ドイツのような支援専門職がいないのです。私が、その専門職になる!と決めました」

 小児がんを支援する会で、ソーシャルワーカーとして歩みだした。当時、小児がんは不治の病から、治る病気になりつつあった。自分も小児がんの遺族であることは特に隠しも話しもせず、専門職に徹した。時に、家族からは「Kさんは、家族でないから分からない」と言われたこともあった。
「専門職には、ある距離感が絶対に必要です。親の立場は、良い面も危険性もあります。専門職が私の役割と揺らぎませんでした」。
 小児がんの支援活動も約三十年となり、今、副理事長となっている。「能力不足、辞めたいと思ったこともあります。次の世代の人が、専門職を引き継いでくれることが嬉しいです」

 今思うことを優しく話てくれた。
「渡辺和子先生は『おかれた場所で咲きなさい』と言われた。教師、親、ワーカーとして、私なりにその時その場所で、いのちを支えてきました。それは、全てつながっていくんですね」
「ドイツに『幸せをもたらす子』との諺があります。理央子が何が本当に大切かを教えてくれました。幸せを運んでくれたように思います。その遺してくれたものを、少しでもお返していきたたいと思います」

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