天晴だった両親の他界
両親とのお別れは、私の最も心温まる、パワーが漲る楽しい思い出の一つです。
2017年12月1日から、母の亡くなる前日の2018年12月22日まで、卵巣がんの母を実家で寝泊まりしながら介護していました。
椎間板ヘルニアで足腰が弱った父は、母が最初の癌・悪性リンパ腫の手術をする必要が出てきた2014年秋から、市内の介護施設に入居していました。
母はおそらく12月24日に生まれたのに、出生届は父の誕生日と同じ3月15日。戦禍で役所が閉鎖されていた時期でもあったらしく、僅かな罰金で済んだと祖父が話していたそうです。
それはさておき、私が小さい頃は夫婦喧嘩もしょっちゅうで、決して仲睦まじいとは思えなかったけれど、母の容態が悪くなるのと同時に、父の容態も悪くなっていきました。離れているのに、二人三脚みたいに二人同時に悪くなるのです! おかげで兄と私は父と母の入院先を掛け持ちして医師の説明を聞き、必要なものを買いに走ったりして、バタバタ。
「お父さん、いまお母さんが大変なんやから、いい加減にして!」
と思ったりもしたけれど、父が母を心配しているのがわかったので、以来、月に1度は介護タクシーを呼んで、二人を引き合わせるようにしていました。
母がストーマの手術と最初の抗がん剤治療を終え、自宅療養に入る直前、兄が実家を片付けてくれて、介護用ベッドが入った日。兄がベッドの脇で、
「なぁ… まさかオトンとオカンが同時に亡くなるなんてことは、ないよなぁ…」
とつぶやきました。
「えぇ~ う~ん?」
そのとき結局、なんて答えたか、覚えていません。
いよいよ二人ともお別れの時期が近づいてきたなぁと感じ始めた頃、なんとか数日だけでも二人一緒に過ごさせてあげたいけれど、痰の吸引が必要になった父が自宅で過ごすには、私が講習を受けなければいけない。その時間も取れなくて、二人同時に一人で看るのは難しそうで、「このまま二人は離れ離れになってしまうんだろうか…」と何度も思い悩んでいました。
そんな想いを抱えたまま、いよいよ母が昏睡し始め、12月20日、母のきょうだい4人が揃って泊まりに来てくれて、一晩中、母の枕元で昔話をして、笑って楽しく過ごしました。小さい頃のお正月がまた来たようでした。
父はその頃、風邪を引いて熱が出ていましたが、母がいよいよとなったので、施設も特別に許可してくれて、翌朝、介護タクシーに父を運んで来てもらい、近所に住む父方の叔母二人も偶然その時に立ち寄ってくれて、母もその時ばかりは目を覚まし、父と母が互いをしっかり認識して、握手するのを双方の叔母たちが介助してくれて、涙なくしては見られない感動のワンシーンでありました。
ところがそれだけでは済まなかったのです!!!
安心して帰っていく叔母たちを見送った後も、叔父夫婦は残ってくれました。
その夜は母が痙攣し、尿も出なくなり、叔父と叔母と仕事が終わった兄と兄嫁で、口を湿らせたり、体位交換しながら、一晩中、つきっきりで過ごしました。
朝イチで医師が来てくれて、このまま自宅で看取るか入院するか、最終確認され、以前と変わらず「自宅」を選びました。
医師が帰ってすぐ、電話が鳴り、父の施設からでした。
「血圧が80まで下がっている。このまま土日は預かれないので入院させたい。介護タクシーでこだま病院に向かわせるから、病院の玄関で迎えてほしい」とのこと。
「え?」
そのとき、意味がわかりました。
母に「どこで死にたい?」と訊くと、仕事も辞めて、献身的に介護している娘に向かって、近所の「こだま病院」と平然と答えていた母。
「まぁ! なんてこと? こんなにしてあげてんのに、なんで自宅って言わへんの???」
同じ頃、発話も難しくなってきた父に「最後、運んでもらうとしたら、どこの病院がいいか、施設に届け出とかなあかんねんて。どこにする?」と聞くと、「こだま病院」と確かに答えていた。
この二人、最後は「こだま病院」で落ち合う約束をしていたのです!!!
Σ(゚Д゚)
そうとわかれば、前言撤回。
「おばちゃん! ロミオとジュリエットやわ! 今から病院に行って、お母さんも入院させてもらえるか、聞いてみる!」
それからの展開は早かった。
父の入院手続きを済ませ、
「あの~ 母もいよいよなんですけど、もし、同じ病室に入院させてもらえるんだったら、母もお願いしたいんですけど…」
とわがまま承知で聞いてみた。
つい1週間前、母は点滴のカテーテル手術を受けたばかりだったので、カルテも揃っている。
「う~ん、術後の経過観察を行う詰め所の隣でしたら、お二人一緒にお入りいただけます。ただ、お一人、動かせない方が先にいらっしゃいますので、二人っきりではありませんけど」
「わぁ、それでもいいです! ありがとうございます!」
「では、お帰りになって、救急車を呼んで、救急車に一緒に乗って来てくださいね」
叔父の車で帰宅し、準備して、救急車に同乗。喪服の準備に帰宅する叔父夫婦と別れて、ひとり病室に着き、
「お父さん、お母さんも来たよ! 聞こえる? ほらほら、あのベッド、見えるでしょ?」
「お母さん、こだま病院に来たよ! お父さんと同じ病室よ! そこにお父さん、いるよ! 声、聞こえるでしょ? よかったね!」
近所の方たちも代わる代わる様子を見に来てくれた。
「ここへ来たら、二人にいっぺんに会えると聞いたから」
「おじちゃ~ん! わかる? 〇〇よ! 久しぶり~!」
処置に来てくれた男性の看護師さん。
「父と母、どちらがより悪いでしょうか?」と訊くと、
「う~ん、難しいですねぇ。現時点では、ややお父さまの方ですかねぇ… あれ? もしかして、岡崎さん? 駅前に一時期、入所されてました?」
「え? もしかして、父が(アルコール依存とせん妄で)いちばん狂暴だったころに、看ていただいていた方ですか? 叩いたり、噛みついたり…」
「いや~ 痩せてはるから、わからんかった。あれ、奥さん? 毎日、見舞いに来てはった? いや~ こんなこともあるんですねぇ。精一杯、看させてもらいますね」
しばらくして、様子を見に来てくれた病院の理事長さん。
初対面の私と同年代の方でしたが、
「岡崎さんですよね。ようスナックで一緒になって、お世話になったんです。できる限りのこと、させていただきますから、安心してお任せください」
あぁ、私、なんもせんでいいんや。全部、病院の人がしてくれはるんや。それで二人、一緒に過ごさせてもらえるなんて、ありがたや~! 夢みたい~♬
その夜に母の容態が悪化し、最後の時間は兄と母とでゆっくり過ごせた方がいいかな? 母も一晩中、明るい電灯は眩しいかな? と思って、母だけ個室に移してもらい、仕事を終え、身支度して泊まりに来る兄の到着を待つ。
23日に日付が変わり、兄と姪にバトンタッチし、病院を出て、
「これで私の役目は終わった! バンザーイ!」
と両手を広げ、大声で叫びながら、ニコニコ(^^♪
湧き踊るような気持ちで坂道を駆け下り、自宅へ帰り着きました。
久しぶりの自宅でゆっくりマコモ風呂に浸かって気ままに過ごし、ようやく寝入った矢先、兄からの電話で母が亡くなったと聞かされ、さぁ大変。
つい数日前、母が「お葬式をしたい」と言っていた駅前のお寺に相談に行き、祖父母のお葬式もしてくださった顔なじみの前住職さんから、窓口になる葬儀会社の電話番号を聞いていました。震災で義父を亡くし、私には1回だけお葬式の経験があったので、何もかも初めての兄を脇からサポート。
母はエンゼルケアを施され、病院の配慮で、広い経過観察室に二人のベッドがピッタリ寄せて並べられました。
「お父さん、お母さん亡くなったからね。ほら見て。ね? わかる? 今から家へ帰って、お通夜とお葬式するから、また来るから、待っててね」
「ワシも帰る!」
「うん…でもお父さんは入院してるから、帰られへんねん。大丈夫やから、ここで待っててね」
23日(土)亡くなった当日が母のお通夜、翌24日㈰がお葬式。兄や従兄弟の仕事に差し支えない日を選んで亡くなる、さすがは行き届いた母です。
滞りなく式は終わり、斎場からお寺へ戻る道すがら、遠くから来てくれた叔父叔母や従兄弟姉妹たちにマイクロバスで父を見舞ってもらうことを思いついた私。
病院はOK、運転手さんもOK。
兄だけが「病院に黒い喪服で大勢で押しかけるなんて、縁起悪い非常識なこと、するな!」と大反対。
しかし、またとないこのチャンスを逃すわけにもいかず。
父は、代わる代わる笑顔で挨拶してくれる懐かしい顔に「おぉ~!」「おぉ~!」と固く握手したりして、興奮気味。病気療養していた叔父たちにも会えて、涙を流して喜んでいました。何があったか、その理由をわかっているのか、忘れているのか。
もはやどっちでもいいけど、「また来るね」と言って、病室を後にしました。
全てが終わって(関西ではその日のうちに初七日の法要も済ませます)、親戚を見送り、帰宅して、兄と私は二人とも父を見舞わず、そのまま熟睡。
翌25日㈪ 朝7時ちょうどに玄関のチャイムが鳴り、寝間着姿、寝ぼけ眼で出て行くと、
「オトンが亡くなったんやわ。僕も間に合わへんかった。あんた電話出ぇへんから、家の電話鳴らしてまで起こさへんかったで。もう勝手もわかってるから、〇〇さん(葬儀会社の人)呼んで、連れて帰って来た。いま実家で寝かせてる」
「えぇ~! うそ~! お父さん! … あと1日、早かったら、ぜんぶお母さんと一緒にできたのに」
「それはオトンのプライドが許さへんやろう。そういう人や。昨日の夜、みんな帰りはったばっかりやから、疲れてはるやろし、この年末の忙しい時に、また来てもらうのも気の毒やけど、来てもらわんわけにもいかへんから、1日、空けよう。お通夜は明日、お葬式は明後日にするで。遅過ぎたら年末でかえって忙しなるし」「うん、そうしよ」「んじゃ、僕、仕事あるし、親戚の人に連絡してくれるか?」「わかった」
葬儀参列の御礼と思って電話に出た親戚は、みな驚いて、二の句も継げない。話す方も聞く方も、自然と笑みがこぼれてくる。「ヤラレタ~! そんなに一緒にいたかったん? それはごちそうさまでした」という感じ。
ご近所では父の後追い死説も流れたという。そんなパワーがどこに残されているというのか!(苦笑)
父のお通夜(26日㈫)とお葬式(27日(水))で再び顔を合わせた親族は、満面の笑みをたたえて
「こんばんは~! こんなに早くにまたお会いできるとは~」
誰一人、泣かないどころか、むしろ、めっちゃ楽しそう。
「この短期間に、こんなに何度も顔を合わせて会食するなんて。私たち、こんなに仲良くなったのよ~」と父方と母方が入り混じり、世間話に花を咲かせて大賑わい。
まさに、盆と正月が一緒に来たみたいでした。
年が明け、アカシックリーディングをやっている友人と電車に乗っていると
「いま、お母さんが話しかけて来てはって、『あんたの言う通りにやったら、うまくいったよ! ありがとう』って言うてはる」
確かに私は母が昏睡状態になってから、何度も
「お母さん、亡くなって72時間以内に光の誘導についていかないと、道に迷って、天国に行けないらしいよ。光を見たら、迷わず、行ってね」と話しかけていた。
芙蓉先生からか、高橋先生からか、どなたからお聞きしたか思い出せないが、母はそのことを言っているらしかった。
だとすれば、「私、そろそろ行くわよ」と母が父に声をかけ、「わかった、ワシも行く」と一緒に旅立ったのだと思います。
いちばん悲しいはずの実の両親とのお別れが、親戚やご近所さん、病院の方たちの応援もあって、こんなにも楽しく元氣づけられるエピソードになったので、私は死にゆく人や看取る人をケアするスピリチュアルケアを学んだのに、湿っぽいケアは想像できなくなりました。
命日より、むしろ二人一緒の誕生日が近くなると両親のことが思い出され、今も一緒にいると思うと、いつも心温かくなります。
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