言葉について(1)音写語「ホロコースト」と「ジェノサイド」

 この数年、社会科学分野の本を読むことが増えてきている。そこで強く感じるのは、言葉を軽く扱うものが意外と多いことである。
 
他の分野、例えば自然科学や工学では、専門用語は関連する学協会によって定義されているのが普通であるし、英語等の外国語と日本語の対応もなされている。大きなものはSIやISOだが、様々な専門分野でもそれぞれ決めているのは、学術的な議論のみならず現実の取引に支障が起こらないためである。私見の範囲では、心理学、教育学、宗教関係なども比較的統一がされている印象がある。国内の研究者、専門家が国際的に活躍しているからであろう。
 
不思議なのは、法学、政治学、経済学、社会学などの分野で、もちろん国際的に活躍している人がいるのに、一方ではガラパゴス的な言説も目に付く。その一因には用語を軽く扱う風潮があるように感じることが多い。少し遠回りかもしれないが、外国語に対する感じ方、扱い方について気の付いたことを述べていきたいと思う。
 
今回は外国語を音写(カタカナ)して使用している用語の例を取り上げる。
 
日本ではナチスによる組織的な殺戮を「ホロコースト」と呼ぶことが多い。同じような意味で「ジェノサイド」も用いられるが、ナチスによるもの以外も対象とする、より広い意味で用いられることも多い。外来語の音写はとかく概念があいまいになる(仏教用語の例など)ので注意が必要である。この類似概念の二つの言葉の由来を調べてみると、あまりにもかけ離れたものであることに驚くしかない。
 
「ジェノサイド」は1944年ころに作られた造語(歴史上見られなかった現象なのでそれを表現する言葉がなかったとの理由で)で、ギリシャ語とラテン語の単語をつないで作ったものを英語化(英語的な発音にした)したもの(民族、種族単位での殺戮のような意味)。
 
「ホロコースト」は旧約聖書に多く出てくる言葉で、ヘブライ語~ギリシャ語を経由してラテン語holocaustum(和訳:燔祭)となり、そこから英語化しているとのことである。意味は、清浄な動物などを丸ごと焼いて生贄として神へ捧げることである。長崎の原爆投下について永井隆が「燔祭」と表現した(キリスト教の教義を踏まえたもの)が初出らしい。だからこの表現は原爆投下を宗教的に捉えるものであって、事象に対する客観的な用語として使われたものではない。ヨーロッパでのナチスの行状に使われるようになったこととの関係は不明なようであるが、ユダヤ教/キリスト教の宗教的な背景があることは間違いないだろう。実際、「ナチスによる犯罪を宗教行為と同一レベルに置くものだ」としてこの言葉の使用に反対する意見もあるそうだ。
 
ナチスによる殺戮は「民族」だけを対象としたものだけではなく、さまざまな障碍や思想を理由としたものもあることはよく知られている。(健康と環境の強調はナチスの特徴の一つであり、ここから退廃芸術排斥、ワーグナー崇拝に至る)。厳密にいえば、「ジェノサイド」もすべてを網羅した言葉とは言えないことになる。

 カタカナで日本語化した言葉も元の意味を理解しておくことにより、安易なぞんざいな使用を防げると思う。

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