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「読書百遍意自ら通ず?」(1)

 昨年の春、独学でラテン語の勉強を始めた。教科書はいろいろ調べたすえ、最もよく使われているらしい、中山恒夫『標準ラテン文法 Classica Grammatica Latina』にした。屈折語はまず形態論だからサンスクリットに似ていて、それほど抵抗もなく進んだ。練習問題もそれほど難しいものでもなくこれはいけそうだと感じた。
 秋には放送大学の面接授業で唯一のラテン語の授業があってこれを受けた。独学でやったところの復習的な感じで臨んだのだが、独学では見過ごした細かい記述の説明や、練習問題には表れてこない注意点など得るものは多かった。驚いたのは一度独学で解いたはずの練習問題が、全く初めて見るように感じたことだ。形態論自体(格変化、活用)は覚えているが、単語はほとんど忘れている。たった数か月前なのに!

 毎年今の時期は、4月からの1年をどのように過ごすか計画を練る時期ではあるが、頭(記憶力)も体(体力)も引き続き長期低落傾向にあることを前提にせざるを得ない。ラテン語の学びをこれからも続けていけるか、心もとないので、練習問題をぱらぱら覗いてみた(3回目である)不思議なことだが、辞書なしでなんとなく読めるのである。もちろん代表的なやさしい構文ということはあるにせよラテン語の雰囲気が感じられてくる。

 むかし「読書百遍意自ら通ず」のようなことを言われて、「同じものを百回も読めるわけがない。飽きるだけでそんなものは時間の無駄だ」と強く反発したことがある。特に実務的文章や科学・技術論文は一回で通じなければ意味がない。何度も読み直さなければいけないような文章を書いてはいけないのだ。
 だが、それはそれぞれの分野における暗黙の了解事項の存在を前提にしているので、思想・文化のバックボーンが異なる場合には成立しない。語学の勉強が思想・文化の学びでもあることに気が付いたのは、サンスクリットの名詞文だ。文字通り名詞という単語が並んでいるだけで動詞はない。名詞という単語の存在自体が、それが示しているものが存在していること、それが有るということを示している。「あります」「います」という余計な説明はいらない。
 

 読書百遍の出典はどこなのか調べてみたら、『三国志』の魏書巻十三に董遇の言葉として紹介されている。正確には、下記の通り(句読点、カギ括弧は後世の追加)
 
人有從學者、遇不肯教、而云「必當先讀百徧」。
言「讀書百徧而義自見」。
從學者云「苦渴無日」。
遇言「當以三餘」。
或問三餘之意,遇言「冬者歲之餘,夜者日之餘,陰雨者時之餘也」。

 
 この言葉について、多くの場合ここまでしか説明されていない。どうも変だな、これでは生徒に「時間を作って勉強しろ」と言っている受験学習塾の先生のようだ。後世に伝えるほどのものではないと思っていたら、その直後の文章がすごい。 

由是諸生少從遇學。無傳其朱墨者。

 
 董遇という人は先生として失格だったようだ。後世の教師たちはこれでは都合が悪いので、この文を除いて伝えることにしたのだろう。
 ちなみに、自らの体験として「讀書百徧而義自見」と感想をいうのは問題ない。自分の感想を他人に押し付けるからダメなだけだ。


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