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興福寺奏状

 法然坊源空聖人の『選擇本願念佛集』は、その内容が知られると強い批判が起こった。その一つが、この『興福寺奏状』(以下『奏状』)である。
今までその存在自体は知っていたし、「九箇條之失」とか概略の内容はいろいろなところで何回も聞いてきた。しかし、現代の真宗門徒の立場で考えると「国家と癒着した旧仏教側が難癖付けてきて、これが朝廷による弾圧(承元の法難)のきっかけとなった」程度の認識でしかなかった。しかし、今回初めてその原文を読んでみた。

 『奏状』を読んでみると、第六条、第七条では、専修念仏の教えに対し観経、曇鸞・道綽・善導の諸師の名を挙げてそれからの逸脱を具体的に論駁している。これらは他の条よりも長文で詳しく書かれている。また、法然聖人個人に対して、沙門源空とか上人という敬称を使っている箇所がある。批判はしても必ずしも法然聖人個人への強い非難とは感じられない。また、内容的にもそれなりの学僧でなければ書けないし、書き手が国家と癒着して書いたとも思われない。

 解脱房貞慶の起草と伝わっているが、この人は当代随一の学僧といわれ、多くの法要で講師を務めて評価が高かったようである。九条兼実に頼まれて講義をしたところ感激して、同席した奈良の大僧正とともに「拭感涙」したとか「殆可謂神歟」と記されている。(『玉葉』巻六十二)                                        
 この貞慶という人は興福寺の俗っぽさに嫌気がさして38歳(28歳説もある)で山頂にある笠置寺へ隠遁し(同上巻六十三 兼実に隠遁を伝える記載あり)、戒律の復興にも力を入れた人と伝えられているから、このような人が執筆したとの言い伝えも頷けるところである。
 戒律遵守に極めて厳格なため、隠遁せざるをえなかった高僧であるからこそ、俗人向けの専修念仏の教えを厳しく非難しえたとも思われる。国家の法会に参集しそれなりの待遇を受けるのを当然とする僧では自らにも返ってきそうなことは書けなかったであろうと思う。
 
 なお、『奏状』の最後に「副進」とする文章が付されているが、それまでとは文章の調子が変わっていて、朝廷に源空と弟子の取り締まり(専修念仏停止)を求めているので執筆者は世俗権力に近い別人と考えたほうが良いようだ。
 

 ちなみに隠遁した高僧と言われて真宗門徒が思い出すのが、親鸞聖人と同年齢の明恵坊高弁上人であろう。法然聖人の『選擇集』を激しく非難する『摧邪輪』を著したことで知られている人である。この人も国家的法会への参加を嫌ったと伝えられていて、戒律を固く守るがゆえに俗世間とのかかわりが深い神護寺を離れている。その心は、下記の辛辣な和歌からも感じられる。
 「山寺は法師くさくてゐたからず心清くばくそふくにても」

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