さめるまえに

「それにしても早いもんだね。」
彼女がぽつりと呟いた。
「確かに。もう卒業とか、実感わかない。」
 座り慣れた椅子に見慣れた景色。足蹴く通ったこの喫茶店も今後は疎遠になっていくこと想うと、ただの壁掛け時計すら切なさを帯びて見えてしまう。その時計は店長の趣味なのかわからないが、シックな雰囲気の店内にはあまり馴染んでいなかった。秒針を刻む音がやけに鬱陶しく思える。
「そういえば、サークルとかはどうなったの。弓道は続けないんだっけ。」
「んー、たぶん続けないかな。面白そうなサークルたくさんあって結構迷ってるんだー。さすが都会の大学って感じ。」
見て見てと差し出されたスマートフォンを覗くと、サイトにはサークルの名前がずらりと並んでいる。その中からいくつかを指さして、これがね、と語り始める。
「ねえ、どれがいいかな。」
スマートフォンから顔を上げると、ふいに目が合った。きらきらした瞳がこちらを見つめていた。
「このサークルとかいいんじゃないかな、楽しそう。」
視線から逃げるように適当な言葉を見繕う。
「おー。確かにこのサークルいいかも。」
画面を齧りつくように見つめながら、感嘆の声をあげている。こんな風に楽しそうに話す彼女を見ているのが好きだった。最近は大学の話になると一層目を輝かせている。それが少し複雑で、前みたいに笑って聞いていられてるか不安だった。
 カップに口を付ける。まだ温かいコーヒーの香りが鼻孔をかすめていく。程なくして苦みが口いっぱいに広がった。初めて訪れたとき、格好をつけてブラックを注文したあの日の自分が恨めしい。結局最後まで慣れずに、苦いままだった。
「そういえばケーキ、全然来ないね。」
 思い出したように彼女が呟く。今日くらいはと、少し値段の張るショートケーキを勢いで頼んだが、いつになっても運ばれて来ない。
 もしケーキが届いて、食べ終わったら店を出て、駅まで歩いて、そこで本当に終わってしまうような気がしていた。実際春が来てしまえば、会って話すこともままならない。ただ、彼女を引き留める後ろめたさが喉をきつく締め付けていた。
「お店、がらがらなのにね。」
がらんとした店内に視線を向けながらそう答える。
「いつ来ても他のお客さんあんまりないよね。」
彼女も同じように店内を見渡すと、心配そうな表情を浮かべた。静かな方が落ち着くからこれくらいのがいいけどね、と付け足す。
「そうなると、ほんとにいいお店見つけたね。」
「だね。たしか君が連れてきてくれたんだよね。ありがと。」
彼女がそう言ってにっこりとほほ笑んだ。
 忘れかけてた、この喫茶店に初めて来た日のことを思い出す。二人で歩いていた帰路の途中、もっと話したいという気持ちが抑えきれなくて、喫茶店に行こうと誘ったのが始まりだった。雰囲気が気に入った二人はそれからも何回か足を運ぶようになり、いつしか早帰りの日のお決まりパターンになっていた。
 そうだった。彼女と過ごせるこの時間は、あの日の自分の頑張りが作ってくれたものだった。この先のことが今の自分に掛かっている、そんな大げさで可笑しい考えが頭の中をふわふわと漂っていた。
 秒針の音が頭に響く。徐々に冷めていくコーヒーも、次第に暮れていく外の茜色も、すべてが心臓を急かしていた。乾いた口を潤すために苦いままのコーヒーを口に流しこむ。正解かどうかはわからない、ただ今この瞬間しか残されていないのだ。そう自分に言い聞かせるように嚥下した。
 軽く息を吐いたあと、名前を呼んだ。少し驚いたように、彼女が首を傾げるのが見える。

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