晩夏

 目を覚ますと外はすでに薄暗くなっており、部屋にはカチカチと時計の音だけが響いている。汗をかいたような気持ち悪さが全身を覆い、大きく息を吸い込むと酷くのどが痛んだ。のどの渇きとえもいわれぬ不安に耐えられずに起き上がり、障子に手を掛けると向こうに人影が揺らめいている。
「お、やっと起きたね。」
 青っぽい浴衣を身に纏った彩夏が縁側に腰かけていた。右手ではスイカを齧り、両足はぶらぶらと退屈そうにさせている。ここに座りなさいと言わんばかりに隣を叩いているので腰を下ろすと強引にスイカを押し付けられる。
「夏祭り、行かなかったんだ。」
 丁度花火が上がり始める時間帯だった。山を一つ挟んだ祭りの会場へはどうやっても間に合わない。
「誰かさんが風邪なんて引くからね。」
 態とらしくすねたように見せながら、応える。そうしている間も遠くの山の方を見つめていた。
 その視線の先では空が薄青く染まり、星がその姿を現し始める。虫の音がかすかに聴こえるだけで、驚くほど人気が無かった。二人の空間だけがゆったりと時を刻んでいるような感覚だった。
「他のみんなは。」
「祭りに行ったよ。颯太もあんたの弟君も花火見たいって言ってたから、あたしだけお留守番。」
 申し訳なさと同時になにかやわらかい気持ちがこみ上げる。
「ありがとう、でもごめんね。花火見ようって約束してたのに。」
「いいの。おばさんから好きなだけ食べていいって言われてるし。」
よく見ると奥にある紙皿にはスイカの皮が山のように積まれている。
「それに…」
 彩夏は先ほどが眺めていた山の方角を指さす。
「花火見えるかも。あの辺から。」
「え、ここから見えるんだ。」
 今年の花火はお預けだと思っていたので胸の内に期待が広がる。
「何年か前に体調崩したことがあって、その時は見えた。木も伸びちゃってるだろうし、今日見えるかは分かんない。」
 彩夏の視線の意味を理解する。花火の光がここまで届くかどうかずっと見張っていたらしい。
「たぶんもう始まってると思うけど、見えないね。」
「そう、全然。」
 確か一番最後、特大の花火が打ちあがり、祭りの終わりが告げられる、そんな流れだった。だから…。そこまで口ずさむと彩夏が立ち上がり軽く伸びをしながら応える。
「そうね。最後の大きいやつ、たぶんそろそろだよ。」
 立ち上がった方がよく見える気がして自分も立ち上がる。
 そこから数分間、二人はずっと山の先を見つめていた。まだかな、そろそろかな、と口々にこぼしながら期待を膨らませていた。
 お互いに諦めかけ、腰を下ろそうとしていたその刹那、薄暗い青と山との間から蛍光色の明かりが零れた。瞬きをすれば見逃してしまうような一瞬だった。驚きのあまり二人で顔を見合わせる。
「見えた。少しだけ。」
「見えたね。」
 そのあまりの短さと些末さに二人で吹き出してしまう。散々笑いあったあと、彩夏がふと立ち上がり数歩歩いた先でくるりと回って見せる。黒髪と袖の花がはらりと風になびいた。
「浴衣の感想は来年まで取っておいてね。」
 彩夏がほほ笑む。
「わかった。来年は花火、絶対見ようね。」

 あの夏の日の記憶。
 いくら歳を重ねても私は未熟なままで、思い出したら泣き崩れてしまいそうだったから、目に付かないように隅にしまっていた。


 祭りの騒がしさが徐々に遠くなる。山道を進んでいくと少しだけ開けた場所に出る。この場所が花火を見るにはちょうど良かった。
「道が悪くてごめん。ここ絶好のスポットなんだ。」
「おお。あんまり登ってないけど、結構眺めいいんだね。」
 彼女は感嘆するように景色を見渡していた。私も懐かしさに浸るように辺りを見回していた。数年前とほとんど変わらぬ風景に失っていた時間が戻ってきたような感覚を覚える。

 祭りの喧騒から背を向けるようにしていると、静寂を貫く音とともに強い明かりが地面に私の影を作った。
ハッとしたように振り返る。
眼前には星空に色鮮やかな光彩が広がっていた。
様々な記憶が頭の中を駆け巡っていく。あの日の浴衣の柄も鮮明に思い出せそうだった。
少しづつ視界がぼやけていく。明瞭な光彩は淡くにじんでゆき、頬を伝う。

私はあなたがいない夏を迎えることが出来なかった。時間はずっと止まったままで、それさえも隠すように季節を越えてきた。
けれどこのまま逃げていても大切な人を曇らせてしまうだけだった。
だから、あの日の花火とこうしてお別れしなければならなかった。
君がいない夏でも笑えるように。

名前を呼ばれ我に返ると、心配そうな彼女が私を見つめていた。花火もすでに終わっている。
「もう大丈夫かな」
「ありがとう、大丈夫。それとたくさん待たせてごめん。」
そう答えると彼女は安堵したように目を細めた。
「じゃあ、帰ろうか。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?