残りの自堕落
冷たい風が部屋に吹き込んだ。振り向くと部屋には光が差し込んでいた。
窓の外、連なったビルの隙間から青い空が見えるが、眩しくて目を細める。空ってこんな色だったかなと思う。
「たまには換気しなきゃね、たまには。」
風になびくカーテンを抑えながら、彼女が呟いた。
読み進めていた文庫本をベッドに放り出し、軽く伸びをする。部屋を見渡すと、先ほどまで大事そうに握られていたコントローラーは床に捨て置かれ、モニターにはGameoverという文字がでかでかと表示されている。
彼女に目を向けると外の空気を大げさに吸い込んでは吐いてを繰り返している。視線に気づくと、いったん休憩ね、諦めたわけじゃないよ、と聞いてもいない答えが返ってきた。記憶が正しければ3時間前からほとんど進んでいない。
時計を見ると時刻は午前7時を回っていた。そろそろ頃合いかとキッチンへ足を運び、ケトルに水を補充して、電源を入れる。今日はどれにする?と、部屋に向かって尋ねると、散らかった机を片付けている彼女が振り返る。
「醤油のやつ、ワンタン入ってるやつがいい。」
戸棚を開くと、大量に買い込んでいたカップ麺が残り少ないことに気づく。スマホのカレンダーに目をやると、当日であることを示す青い円がすでに2月へ侵食している。この生活の残り時間も長くない。
「内定貰ったよ、こないだ言ってたとこ。」
6月初頭、待ち合わせたカフェでそう報告する彼女は安堵の様相を浮かべながらも、どこか不本意そうだった。
「最終面接昨日じゃなかったけ?」
「そうだよ、早いに越したことはないけど、ちょっとびっくり。」
第一志望だと聞いていたが、彼女のいまいち晴れない表情に疑問は抱かなかった。内定の電話を切った後の、どうにも喜びきれない感情には心当たりがあり、未だに処理しきれず、手を動かせば届く位置に残っている。
「面接、本社だったでしょ。雰囲気どうだった?」
「うーん、みんないい人そうだったよ。まあ、でもね。」
彼女はふいに窓の外を一瞥したあと、俯きながら答える。
「なんか、見えちゃったんだ。あたしの人生、ここで働くことにたくさん費やして、終わるんだなって。」
平日の14時、オフィス街に位置するこのカフェでは、スーツをぴっちりと着こなした会社員の姿をよく目にする。目の前の通りもお昼を過ぎて少し落ち着いたように見えるが、通りを歩く人々はどこかせわしない。
「あんただって他人事じゃないよ。」
外を眺めていると、彼女の視線はこちらを向いていた。
「わたしと一緒で、仕事にたくさん費やして、人生9割終わり。」
妙に小気味よく言い切られるので苦笑する。極論すぎると軽くあしらうも、完全には否定出来ないと自分もいた。極論で、暴論だが、そんな人生を頭の中でなぞれるくらいの嫌な説得力があった。
これまでは鬱蒼とした森にいて、視界も悪く、この道がどこに繋がっているかもわからないまま過ごしていた。そこから急に道が開け、何十年も先の未来が明瞭に瞼へ注がれる。これが自身の一生かと、手に取って確かめてしまえる気がした。
「やっぱそうかもね。俺たちに逃げ場はないかな。」
「世間体とかプライドとか捨てられたら、このあともずっと人生の夏休みだよ。」
就職をあきらめ、実家で引きこもっている姿を想像する。有り余った時間を注ぎ込む夢や目標を持ち合わせていないのが、余計に質が悪い。選択を先延ばしにしたいだけだと指摘を受けてしまえば、きっと口を噤む他ない。
「友達、減るだろうね。」
「自由に使えるお金も減るね。」
お互い軽くため息をついて、紅茶を口に含む。陰鬱な空気を払うためか、彼女はわざとらしく手を叩いてから話し出す。
「じゃあさ、どうせなら、今しか出来ないことやっとこうよ。」
彼女のその言葉をきっかけに、今しか出来ないことは何かと意見を出し合ったが、旅行をするにはお金もなく、新たに始めたい趣味も思いつかなかった。考えれば考えるほど、これまでの生活がキャンパスライフと呼ばれるようなキラキラしたものとは程遠く、色味の少ないだらっとした日々であったことを思い知らされることとなる。
講義の無い日は家でダラダラ過ごし、意味もなく夜更かしをして、日が昇ったら寝て、昼過ぎにのそのそと目を覚ます。およそ社会性の感じられない一日を幾度となく繰り返してきたように思えてきたが、これこそが、という結論にどちらからともなくたどり着いた。
「引きこもろう。引きこもって家でずっと好きなことをやる。春からは絶対出来ないよ。」
怠惰で有耶無耶な僕たちに出来る、最低限の抵抗だった。
買い出しは多くても週一回、カップ麺とレトルト食品を大量に買い込んで戸棚に詰め込んでいた。飽きないようにと幅広く購入するものの、人気の味はすぐに売り切れる。案の定、醤油ワンタンはない。
博多豚骨味を二つ手に取り、蓋を開けてお湯を入れる。こぼさないように部屋へ運ぶ途中、部屋の隅に積み上がった本とゲームソフトが目に入る。娯楽に困らないようにとこれもまた大量に買い込んでいたが、塔の頂上は若干埃を被っている。
部屋に戻ると先ほどまで散らかっていたテーブルは片づけられ、ペットボトルのお茶が二つ置かれている。運ばれてきたミールがお目当ての物ではないと分かると、露骨に残念そうな顔をする。
「買い出し行かなきゃ。」
その言葉を最後に、3分を待つ間、静かな時間が流れていた。時刻もメニューも不摂生極まりないが、午下に縁側で風を浴びるような、穏やかで贅沢な時間に思える。それにしては風が少し冷たいなとぼんやりしていると、タイマーが鳴り、漂っていた意識が戻る。カーテンが風になびき、ふわりと音を立てた。窓が開けっぱなしになっていることに気づく。
窓を閉め、テーブルに戻ると、彼女が一足先に麺をすすっていた。ふたくちめを飲み込んだあたりで、意外と悪くないね、と呟く。
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