ショートスリープ

「最近眠そうだね。」
 ハッとすると雫が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「ああ、ごめん。寝つきがあんまりよくないみたいで。」
 しわを寄せた瞼には昨日の疲れが残っていた。
「無理しないでね。」
「ありがとう。気を付けるよ。」
 欠伸を繰り返す私とは対照的に、雫はてきぱきと朝の支度をこなしていく。机に置かれたトートバッグにはすでにお弁当が準備されていた。
 倦怠感に引きずられるようにのそのそと身支度を整える。革靴に足を押し込み、キッチンに向かって行ってきますと伝えると、洗い物をしていた雫が手をふきながら顔を覗かせる。
「いってらっしゃい。」


 ここ数日仕事が立て込んでいるのは事実だった。
 ただ寝不足の原因はそこではなかった。
 電車に揺られながらも頭の中はあの晩の出来事がぐるぐると回っていた。

 五月にしては少し蒸し暑い夜。隣の雫は寝苦しそうに息を立てている。少し狭くなったベッドにも慣れてきて、それが心地よくなっていた。ほどよい眠気に身を任せていると、雫が何かを言ったような気がして沈みかけた意識が引き戻される。どうしたの、と声を掛けても返事はない。寝言かと思いもう一度目を閉じると、今度ははっきりと雫の発した言葉が聴きとれた。
「ユウト…」
 誰の名前だろうという疑問が頭に浮かぶ。大方元カレか家族の誰かだろう。明日軽く尋ねてみようと思い目を閉じる。
 そこから十分、二十分と経っても寝付けない。些末なことだと振り払ったつもりだったが、要らぬ邪推が頭にまとわりつくように離れない。
同棲して間もない頃、男性とお付き合いするのは初めてだと照れくさそうに話していたことを思い出す。お互いの家族の話をしたことも何度もあった。少なくとも兄弟がいるような素振りを見せたこともなかった。
 得体のしれない不安が、蜘蛛のようにひたひたと足を延ばしてくるような感覚に陥る。
 その日からというもの、彼女の隣で体を休めるときは決まって、あの晩のことが頭をよぎる。
 ユウトという男性の素性を慮る夜もあれば、本人に尋ねることもせずに疑心の目を向けている自分自身の小心を蔑むこともあった。
 結果として行動に移すことにしたのは正解だったと感じている。得も言われぬ不安を抱え続けるにはそろそろ限界が近かった。仕事についても転職を検討していることもあって、何かと考えなければいけないことが多い。
「では、今日の十八時頃に。」
メッセージを送信する。
返信を待つ間もなく電車が停まり、難儀そうに立ち上がる。


「その、転職ってのは本気で考えて言ってるのか。」
 昼休みにもせわしなくタイピング音が飛び交うオフィス。壁で仕切られた休憩室に上岡と二人きりで座っていた。
「もちろん今の案件はちゃんと見届ける。辞めるのはそのあとだよ。」
 その言葉を聞くと上岡は軽くため息をついた後に続ける。
「そういう話じゃない。お前は今ちょうど軌道に乗ってきて、これからってときじゃないか。」
 上岡の言う通り、大きな案件をいくつか任されるようになり、今抱えてるものは大手の競合からコンペで勝ち取った、正に部署全体の飛躍の一翼を担うような案件であった。もちろん取りまとめを行ってはいるが、どれもそのアイデアに関しては自分のものではなかった。
「通ってる企画は全て坂口のアイデアだ。」
 自分がしているのは企画の進行管理、手が回らない坂口の仕事を引き継いだ形だ。入社時に思い描いていたものとは距離のある役回りだった。
 上岡は分かりやすく肩を落とす。
「まだそんなこと言ってんのか。」
 上岡とは同期でもう四年の付き合いになる。社内でも特に気を許せる人物で転職についてもいの一番に相談していた。
「お前の言いたいことも分かる。広告なんて仕事を選んでる時点で自分の企画、自分のアイデアが世間を賑わす、そんなことを夢見ることも分かってる。ただそれはそこまでこだわらなきゃいけないことなのか。今を見ろよ。他人のアイデアだろうと誰かの代わりだろうとこうやってデカい仕事が出来てる。それじゃだめなのか。」
 言葉の真剣さとは裏腹に、上岡の視線は窓の外を泳いでいる。
「でもやっぱり、誰かの代わりじゃなくて自分が認められたい。」
 自分のアイデアで仕事をしたいという本音は変わらない。ただ上岡の言いたいことも十二分に実感していた。食後の眠気と倦怠感が一気に押し寄せ、思考がまとまらなくなっていく。
「悪い。少し仮眠とるわ。」
 そう伝えると手持ち無沙汰にしていた上岡が席を立つ。
 またな、と言い残すとがやがやしたオフィスの喧騒に戻っていった。


 スマートフォンを確認すると待ち合わせの時間はすでに過ぎていた。夕暮れのカフェは思ったより混みあっていて、オフィス街ということもあってか背広と事務服で溢れかえっていた。焦るように店内を見渡すと窓際で退屈そうにする姿が目に入る。
「すみません。お待たせしちゃって。」
 急いで腰かけるといいのいいのとメニューを押し付けられる。明日休みだし、と付け加えると打って変わって一気に真剣な表情を浮かべる。
「それで、雫と何かあったの。」
 あの晩からの不安に終止符を打つため、雫の十年来の友人である秋奈さんに相談を持ち掛けることにしていた。服装からしても仕事帰りそのままという感じだった。忙しい中呼び出してしまった申し訳なさを言葉にするが、それはいいのと軽く撥ね退けられる。
 本題を待つような視線に急かされる様に口を開く。
「実は…。」
 雫が発したユウトという名前、またお付き合いが初めてだと雫が話していたことなどを伝える。親族の話をした際もその名前に該当する人物の姿が垣間見えたことはなかった旨も、事細かに伝えた。
 秋奈さんはときどき相槌を入れながらも静かに話を聞いていた。すべて話終えたとき、秋奈さんの顔には戸惑いの表情が浮かんでいた。何かを言い淀んだ口元にアイスコーヒーを流し込んでごまかしているようだった。
 何かを知っているのは間違いなかった。背筋が冷たくなっていく。
 口が乾き、この後になんと続ければいいか見当がつかなくなっていた。重苦しい空気を裂くように、秋奈さんが口を開く。
「結論からいうとね。その、あなた一番危惧しているようなことではないから安心して。あなたも分かってると思う。雫はそんなことするこじゃない。」
 一つ一つ確かめるようにことばを紡いでいるのが伝わってきた。
「ただ…。」
 一度言葉を区切ると残ったコーヒーを飲み干す。
 息をついて呼吸を整えた後、続けた。
「ユウト君はね、雫の…。」


「そろそろ寝よっか。」
 雫は大きな欠伸を終えると、そういってベッドに足を運ぶ。ほどなくして向かうと雫は既に横になっていた。二人で寝るには些か狭いベッドに横たわると雫の体温すぐそばに感ぜられる。
 おやすみと交わしてから数分後には呼吸が静かな寝息へと変わっていた。疲れに身を任せるように目を閉じ、カフェでの出来事をゆっくりと思い出す。

「ユウト君はね。雫の弟。少し歳が離れていてね。雫は本当に可愛がってたの。何に関してもまず弟君って感じの溺愛ぶりだったよ。」
 安堵と共に一抹の違和感が心に降り積もっていく。雫はそんな可愛がっている弟の話を一度たりともしたことが無かった。
「ユウト君は今どこでなにされてるんでしょうか。」
 なんとなく発したその言葉をすぐに悔やむことになった。
「三年前に亡くなったの。交通事故で。」
 秋奈さんもよく見知っていたのだろう。話す声に陰りがさしていく。
「もしかして、気を遣わせないために。」
 発するつもりはなかったが気が付いた時には声に出ていた。
「雫が話さないってことはそう言うことだと思う。だけど、これは、今後のためにも話しておかなきゃいけないと思うんだ。」
 そうぽつりぽつりと呟きながら、スマートフォンの画面に目を走らせている。
 何かを見つけたように画面を見つめ、スマートフォンをこちらからも見えるように机に横たえた。
「これ、ユウト君。」
 映し出された写真。そこに写るユウト君は顔立ちや背格好がそこはかとなく、鏡で見る自分の姿とよく似ていた。

 雫は昼間、近所の喫茶店でお手伝いをしている。雫の叔父がマスターをしており、転がり込んでからもう二年近くお世話になっているらしい。ユウト君が亡くなったのが三年前。雫が上京したのが二年前。秋奈さんによると当時雫はうつ病を言い渡されるまでに気を病んでいたという。それを周りが見かねてか自発的にかは分からないが、逃げるように上京したのかもしれない。その半年後には自分と出会うことになる。
 見えない糸に心臓が締め付けられていくようだった。形にしたくないものが着々と姿を整え、明確な言葉となって表出されていく。
 日々の生活で、毎日渡されるお弁当からも愛されていることが伝わってくる。しかしそれは本当に私に向けたものなのだろうか。
 自分を見つめる雫の瞳には一体誰が写っているのだろうか。もしそこに自分が写っていないなら、これまで通り雫と笑顔を交わすことが出来るのだろうか。
 昨晩と何も変わりが無かった。猜疑心に苛まれると同時に、雫を疑う自分自身に絶望した。
 ふと昼間の言葉が蘇る。
「ただそれはそこまでこだわらなきゃいけないことなのか。今を見ろよ。それじゃあだめなのか。」
 上岡の言葉だ。今のままであることはそんなに悪いことなのか、そう上岡は問いかけていた。毎朝見送られて仕事に向かい、毎晩同じベッドで眠りにつく、そんな幸せな生活。それに比べれば雫が私を透かして誰を見ていようが、些細なことではないのか。
「でもやっぱり、誰かの代わりじゃなくて自分が認められたい。」
 これは自分の言葉だ。幼い頃からそうだった。自分じゃなくてもいいと分かった瞬間、胸の中が酷く虚ろに感じることがあった。仕事と同じだ。いまは続いてもいつか耐えられなくなる日が来るかもしれない。そのとき私は雫をどれだけ傷つけることになるのだろうか。

 答えの出ない問答がぐるぐると頭を回っていた。
 雫の寝息が少し乱れていた。その口からまた何か聴こえてしまうんじゃないかと怖くなる。
 眠れない夜、時を刻む針の音だけが部屋に響いていた。

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