厚着

 今日は、昨日と一昨日の気温は一体何だったのかと問いたくなるほど、また冷え込む1日だった。花冷えなのだろうか。韓国では、花冷えを「꽃샘추위(コッセム・チュイ)」という。直訳すれば「花妬み寒さ」とでも訳せるだろうか。「花が咲くのを妬むような寒さ」と言う意味である。
 花は気にせず咲いているようだが、ひさびさに取り出した半袖を着た僕は、一日中「寒そう」と言われ続ける羽目になった。

 今日は、アルバイトを終えた愛方と神保町で待ち合わせをした。古本祭のためである。(愛方もそうであるように見えるが)僕は本にとても欲が深い。そもそもが欲深い人なのかもしれないが、本となると目が無い。
 断っておきたいのは、僕は読書狂いなどと自惚れるつもりは全くない。一般の本好きな方々の方が僕より何倍もの本を読んでいるに違いない。ただ、子供の頃ねだりが許されなかった僕に、ただ唯一何の反対もなく降りていた許可が本であったこと、おそらくそのことに起因すると思われる本買い溜め癖とでも言った方が良い。
 とにかく神保町で待ち合わせた愛方は、僕を見た瞬間「寒くない?」と聞いてきた。この気温に相応しくないこと、そして僕がひどい寒がりであることを念頭に置いての発話だったのだろう。
 僕は咄嗟に答えた。「寒い」

 なぜ僕が半袖の上に薄いシャツ、そして袖なしのジャケットを着ていったのかは、いまだに疑問である。天気を確認し、今日は暖かくて十五度に達しないと言うことを確認したのだ。しかし僕は半袖にシャツを着た。十一月頃から着続けていたヒートテクを脱ぎ捨ててまで。ひさびさに左腕の「月」に光を当てたかったのかもしれない。
 「寒い」と言ったけれども、昼過ぎまでは、それはただ予感に近いモノだった。だが、それはいずれ確信となっていった。
 愛方に寒いか、と聞かれてから、僕は「寒いか」と何度も自らに質問を投げつけた。その度の報告は、少しずつは違うものの、あまり変わらないものであったに違いない。

 この細々とした質問、疑問、それに対する応答、は僕が1日を営むのに、それほど大きな体力を要するものでもなければ、大きな比重を占めるものでもない。じっと考え直さなければそのようなことを考えていたのかさえはっきりしないものであり、いずれなくなるものであろう。
 だが、そのことをじっくり考え直し、思い浮かべること、そして思い浮かんだことを考え続けることは説明のつかない満足感を与える。ゴミ箱に捨て去られていた宝物を救い取ったかのように。

 僕は、研究を仕事とする大学院生である。研究をするとの名目で奨学金をもらい、学費を免除してもらう。そのお金で生を営むからには仕事と称しても良かろう。研究は、絶え間ないインプットとともにインプットされたものの思考、そのものである。なので普段思考が足りない、というまでには至らない。しかし、このようにして見逃してしまっている思考がまだたくさん存在する。その捨て去られる思考は、時には満足感を与えるに過ぎないものであるかもしれないが、時には僕にとって多大な影響を及ぼすものであるかもしれない。
 それらの思考を振り替え、”救い”とる時間として、このマガジンに文章を書き込みたい。
 日記は宝箱である。その意味から、ここに挙げられる文章は僕の宝なのかもしれない。

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