「終わりの意識」

「The sense of Ending」Frank Kermodeを読んで。

 カーモードはこの本にてしつこく「終わり」の感覚を問う。
 日本語では「カチカチ」にあたるTick-Tockという言葉において説明されるその感覚は、小説Fictionの基本的構造となっており、小説Fictionにより絶え間なく再生産されてきた。
 Tickという語には、当たり前のようにTockという言葉が続く。Tickは「始まり」であり、Tockは「終わり」となり、小説はその間Intervalの間隔Durationのどこかに位置づけられる。
 我々は小説を読む際に、その始まりから入り込み、その終わりを予想しながら読み進める。「終わり」の感覚が常に予想され、ましては期待されるのだ。それは聖書についても同じことであり(Genesis:起源 - Apocalypse:終末)、リア王においても同じである。
 
 終わりの感覚があって初めて成り立つ構成Plotは、小説によって古代から、少なくとも聖書とリア王の時期から今まで生き続きており、我々の世界観に深く影響しているとカーモードは言う。
 いったいどのようにしてだろうか。
 より実際的な感覚、我々の経験に照らして考えてみよう。
 例えば帰宅路の上にいる我々を考えよう。(カーモードは、この終わりの意識は直線的な思考を好むとする)会社から家までの道なりにおいて、山手線に乗って、京王線を乗り換えるかもしれない。中央線に乗って、バスに乗り換えるかもしれない。それは東横線でも良くて、小田急線でも構わない。新幹線の場合でもあろう。
 その帰りの電車は大抵の場合億劫な空間である。通勤時間の電車より億劫な空間は僕には思い付かない。(東京のよくないところは夏の暑さと満員電車、この2点に大体収斂すると思う)
コロナが猖獗する今は一層億劫であるに違いない。
 だがもし、その通勤の道なりに「家」という目的地がなくなるとどうだろうか。もはや帰宅ではなくなった移動は「彷徨い」になるだろう。それは、大学という目標を求めて勉強するものから「大学」を奪い取ることであり、給料を思う会社員から「給料」を奪うことである。
 「大学」を失った受験生や「給料」を失った会社員はなぜ勉強し、なぜ働くのだろうか。それでも新たな「終わり」を見出せるかもしれない。が、ここではその「終わり」がなくなったことを想定している。虚無に陥らず耐えられるものはどのくらいいるのだろうか。
 ついで思い浮かぶものはアナキストと呼ばれるものたちだ。アナキスト、よく無政府主義者と称される彼らは(男女を含む言葉として認識してほしい)多くの場合、今のヘゲモニックなシステムに辟易し、全てのシステムを拒否するものたちだと思う。(アナキズムについての勉強不足の僕の表象に過ぎないので、反論はいくらでもありうるし、歓迎する。)
 彼らはいったいどう生きていくのだろうか。アナキズムについて勉強を進めるうちにわかるかもしれない。だが、その吐口は新たなる「終わり」につながるのではないかと密かに思ってしまう僕がいる。

 なんらかの「終わり」の意識がなければ、僕は自殺に至らず生きていけるのだろうか。
 一般的我々の人生の道なりとしての「学校-就職-結婚-子育て」というルートはそのようにして我々を生かしているのかもしれない。カーモードが指摘しているように終末論者たちは、終末が来ても終わらないこの世に新たな終末論を用いて終末を遅延させる。人の人生も「子育て」で人生は終わりはしない。「子育て」は子供の「学校」という新たな始まりとなり、子どもは親のルートを引き継がねばならないのだ。離婚や自殺、年老いての虚無感などは、そのルートからの逸脱として理解することも可能なのかもしれない。
 だが、その逸脱こそが(常にそうであったように)聖書から始まる小説によって構築されてきた「終わりの意識」から自由になる道なのかもしれない。その異名はコペルニクス的転換、あるいは革命なのかもしれない。しかし、それは二項対立的な「上部構造」と「下部構造」の位置の入れ替わりであるわけではないだろう。そうであることを願いたい。

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