デリダにおける「現前」

 ポスト構造主義、いや少なくともJacque Derridaを勉強するためには、「現前」という単語について知らなくては何も進まない。

 青土社の「現代思想ガイドブック」シリーズの『デリダ』に置いて、著者であるニコラス・ロイル氏は、デリダの思想における鍵観念の提示を拒否する。なぜなら、その鍵観念というものをデリダのものとして、あるいは確固たる概念として規定してしまってはいけない、と考えるためのように思われる。(理解が間違っているかも知れない)

 現前、という概念も、このような単語である、と規定してしまうことはダメなのかも知れない。なぜなら「全ては開かれていて、いまだに思考できるもの」(ロイル:90p;Derrida, Interview in 1993)であるから。

 だが、少なくともデリダがどのように「現前」という単語を使ったのかは知る必要がある。これからの内容は、成城大学の『AZUR』第一号(2000年)に掲載された、中村康裕氏の論文「「現前の形而上学批判」とは何であったか」からの内容である。

 デリダは有名な著書『グラマトロジー』に置いて、「現前」を批判する。
デリダは同著書に置いて、エクリチュール(Écriture:文字、書かれたものなど)が、パロール(Paroles:話し言葉)に対して劣等ないちに置かれたことを批判する際に、この「現前」を用いる。

 現前は、「présence」日本語訳であるが、「存在」などと訳されるのではなく、「現前」と訳されたことには、意味がある。現在存在するものの、前に置かれるものとして理解すべき単語であるからだ。

 フランス語のprésenceは、ラテン語から由来するが、
「pre」は、「Before:前」の意味を持っており、
「esse」は、「to be:存在する」の意味をもつ。
つまり、存在の前に存在するもの、としてデリダは使っていたと、解釈することも可能である。それがまさにデリダの使い方だろう。

 中村氏は、デリダが、エクリチュールをパロールより下にみなす西洋の形而上学の根本について批判をなすとする。この主張は、他のデリダ関連の書籍からも見られることで、多くの研究者の間ではすでに共通的に認識されているとみなしてもいいような気がする。
 西洋の形而上学には「存在・神・目的論(onto-théo-téléologie)」という構造が現前している。プラトン以来の形而上学では、このような「現前を基盤として階級構造をなし、頂点には究極の目的(テロス)である神的存在へいたる。」(中村:64p)

 つまり、西洋形而上学が常に既に揺らぎない基盤として想定してしまっている「存在・神・目的論」自体が、確固たるものではないということなのだ。
 先ほどロイル氏の引用からもわかるように、デリダにとっては「全ては開かれているもの」である。西洋形而上学が確固たる基盤として想定してしまっている現前は、ただの可能性として存在しうるもので完璧なものではない。そもそも完璧なものとは存在しない。
 なので、エクリチュールがパロールより劣るとみなす西洋形而上学が、そもそも間違った現前によって成り立っているため、「劣るとみなされる」ことも不完全な命題として攻撃されているのである。
 デリダは、西洋形而上学そのものの基盤を見つけ出し、崩してしまったとも言える。もちろんデリダの見解には多くの批判もあるだろうが、デリダの見解は、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』を思わせるところもあって、確固たるものとして存在する西洋の思想、それ自体に疑問を投げつける、ということを行なっている。

 よく、歴史は勝者によって語られる、といったことが言われる。大航海時代以降、「勝者」として君臨した西洋思想は、開かれた人間の思考の中で、一つの可能性として生まれてきたものに過ぎない。しかし、いつの間にかそれらは我々の目の前の現在以前に存在する「現前」として確固たる基盤をなしてしまったようだ。
 そのことに疑問を付すことは、それだけでも十分価値のあることだろう。


参考文献

・中村康裕「「現前の形而上学批判」とは何であったか」成城大学『AZUR』第一号、2000年
・ニコラス・ロイル著、田崎英明訳『現代思想ガイドブック ジャック・デリダ』青土社、2006年

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