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ACだった私の恋愛傾向

私はまさに依存体質な人間でした。

学生時代から付き合う人とはズブズブの関係。
友達など恋人以外との予定は最低限に、恋人と過ごすばかりの生活。
今まで付き合った恋人の傾向は、一匹オオカミで少し変わり者、良く言えば自分の芯がある、悪く言うと強すぎて他の人から浮いてしまう。
そんな傾向が強かったです。
きっと、そのような似た性格の相手を選ぶのは、私の羨望のまなざしがあったのではないかと思います。

そんな私には離婚歴がありますが、その当時、元夫とも依存関係で、自分も相手もお互いだけが居れば良い、お互いの予定を全て優先し四六時中一緒にいる存在でした。
 
過去一緒に過ごした男性との関係を振り返ると
「私がいないとダメだ」
「私が彼を救うんだ」
「なんでみんな彼の良さをわかってくれないんだろう」
そんな気持ちでいつも一緒に過ごしていました。

あれこれが起きた時に周囲の人に話すと、「なんで別れないの」と言われたり、私が相談したわけではない人からも「なんでゆきちってあいつと付き合ってるんだろう」と言われたようであったり、、。
傍から見ると異常な関係なのにも関わらず、その関係に疑問を持つことすらありませんでした。
 

しかし、それは相手の問題だけではありませんでした。
自分が毎回同じようなタイプの人に惹かれ、その人に依存してしまうのは、自分の無意識の考え方に原因があるのだと、薄々感じていました。


結婚生活の中で、「依存体質」「アダルトチルドレン」という言葉に引っ掛かりを覚えました。
色々調べていく中で、当時のカウンセラーの先生の存在を知り、離婚をきっかけにカウンセリングを受けることにしました。
 
共依存の恋愛や結婚生活を振り返ってみて感じるのは、その時は盲目に彼を支えること、尽くすことに必死で過ごしていました。
しかし、その中に「私」はなく、あくまでも「彼」が主体で、“彼を救うことで私が存在する”という構造だったなと感じます。

きっと、そうなることのできる相手を無意識に探して、そうなるような関係を作ってしまっていたのだと思います。

冷静になって思うのは…本当に疲れます!!(笑)
そして、悲しいことに関係を終えた後の自分が心底もぬけの殻に感じるのです。
 
お互いがお互いの存在に甘えた関係なので自分と相手の境界が非常にあいまい。
健全に自立した人同士であれば
「自分の責任ではなく相手の問題だ」
と捉える出来事にも
「自分に非がある」
「自分が支えられなかったからだ」
と自責してしまいがちになります。
 
また、その当時の私はいつもどこにいても誰かといても不安を覚え、常に他人の目にさらされ、評価されている気分で過ごしていました。
それゆえ、元恋人や元夫といるときだけは、自分の味方である存在のテリトリーにいるという(誤った)安心感を覚え、余計にその環境にしがみついていたのだと思います。
 

離婚という言葉が頭によぎり始めた頃から感じていたことは、自分の人生ではなく相手の人生を生きているようで
「私はいったいどこに存在しているのだろう」
という不安に駆られました。
 
離婚をきっかけに、自分の人生を生きたい、その為にまずは自分が自分自身であることを受け入れなければと思い、自分を客観的に観察し思考の傾向を分析し、自分の思考を変革することに努めました。
その作業を行っていく中で、いかに自分が歪んだ認識の中で生きていたのかと感じたことを覚えています。
また、常に誰かの目を気にして生きてきたのだと改めて感じさせられました。

しかし、その不安が和らいできた頃に感じたことは、その不安は自分の思いこみからきている感覚であり、実際には良くも悪くも他人は自分のことにそこまで興味がないことに気がつきました。
そして、これらの思い込みは、子どものころの親との関わりの中で刷り込まれてきた価値観や認識なのだということもわかりました。
 

今の私は、今までの人生では覚えたことのない“自分との繋がり”を感じています。

自分自身の人生を生きているという感覚を覚えることができるようになり、対人関係においても、自分らしさを出して人と接するようになれました。

そして、何かを選択するとき(就職や結婚のような大きな決断だけではなく)今この場でどう振る舞うか、今日何を買うかという小さな選択を含めて、昔は人の目や意見ばかりを気にして選択していましたが、今は自分が好きなもの、選びたいものを考え選択できるようになったと感じています。
 
自分が変わった世界は、同じ世界なはずなのに、やさしくあたたかい陽気の中にいるように安心感を覚え、自分の人生を生きられるようになったのだという充足感を日々感じながら生活ができるようになりました。
 

そんな私は、現在ホテルマンとして7年ほど働いています。
「ホテルマン」と言うと、何ともカッコいい響きに感じますが、いわゆるクレームというものの対応をすることも多々あります。
そして、私たちスタッフの目には「怒っている」という状態のお客様(こちらに非がある場合もない場合も)と接する機会も数多くありましたが、怒りの状態の深くには、また別の気持ちがあるのだということをお話をして感じました。
「本当はこういう要望を聞いてほしかった」
「ホテル側の都合ではなく私はこう感じた」
そういう思いを遮って提供するサービスは、やはりお客様にとっては不快感や不満が残ってしまうのだと感じます。
 
そして、このことはホテルでのサービスだけでなく、自分自身の人生にも置き換えられるのだと思います。

ACの多くの人たちは「良い子であること」が求められる人生を生きていることが少なくないですが、自分が本当に感じている「私の気持ち」はどこへいってしまったのでしょう。
親や周囲の環境に自分の気持ちを抑えつけられた人は、自分の気持ちを出すこともできず、知らず知らずの内に不快感や不満を知らずの内に抱えて生きているのだと思います。
もしかしたら、自分の本心さえも本人は気がついていない可能性もあります。

それでも「良い子」「良い人」であることを自分に課して生きているのだと考えると、それほど悲しいことはなく、人様の人生に口を出すのは何ですが、自分の人生を生きて良いんですよ、ということを心から伝えたくなるのです。
 

過去の私と同じことで悩んだり苦しんだりしている方が、少しでも生きやすく自分の人生を歩んでもらえたら嬉しいなと思い、私自身の経験で得たことや学んできたことを発信していけたらと思います。
私自身がまさに、上に記したような状況を生きてきたからこそ、強く願ってしまうのだと思います。
少しでも多くの人の目に触れ、そして、同じ気持ちの人がいるということ、似た経験をしている人がいるということ、そして、自分も変われるのではと勇気になり、少しでも気持ちが軽くなり生きやすくなったと思ってもらえたのであれば、私も嬉しいです。

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