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数霊初級浜松

数霊初級浜松

講師 田上晃彩 

数霊の講義はこんな感じだった。


数霊初級浜松 第 1回 昭和53年 4月2日

第1回の数霊の講習会を始めます。最初に講義を連続的にやる前に、数霊的な物の見方、また物事の考え方。それをまず知って頂く必要があるわけなんです。

現象の世界は皆さんがご存じのように年々歳々すべて変化する事が本体となっています。ですから心が中心であると説いておる所の仏教の世界から見ましても、 心が中心であるという事は、不動であるはずなんです。不動であるから中心という表現をとっているんですから。

だけれども、不動である心がなぜに、日々歳々、この時間の変化、自分の生命の置かれる場所において、変化するのかという事を考えますと、今までの基本の、また 既成の心の在り方ということにおいて、大きな疑問が出てくるはずなんです。

一面では心は不動と言う。しかしその反面現実から見ると、自分の心が時間、時間、 置かれる場所において、全て変わるんだと。この変化する心と、変化しない心というものが、大きく対立した所は何なのかと。それをまず第一番に考えなければいけない問題だと思うんです。

そうすると、変わらない物はなんなのかとなりますと、私は結論から申し上げます と「命が変わらないんだ」と。私はそのように思います。

それは皆さんが、この現象世界にオギャーと誰が教えるともなく、この第一声を張り上げて、あの体であれだけの大きな音量があることは考えられないけれども、とにかくもの凄い声を張り上げて、生命の誕生の息吹があると。そして現在の皆さんの生命もその赤ん坊の生まれた生命と全く同じ生命の持ち主なんです。

そうすると、この千々に乱れる心を中心と見るべきなのか。それとも変わらない生命を中心として、それを視座において物事を見つめ考えるのが正しい物の在り方なのか、それを考えますと、中心であるものは不動であるはずなんです。不動なるが故に中心の座標となるんですから、その事をまず念頭に置かないといけないわけです。「数霊 における第一義は命」なんです。生命ですね。日本の言葉では、正しくは命といいますね。

この命は、ここに動物にも命があり、 樹木があっても樹木の命があり得るし、また動物の命もやはり命には変わりないし、また我々が野原に出てあしげにして踏みつける所の草花もやはり命があるんです。

この命という問題は「共通に共に我々と一緒に生命がある」というこのですね。 生命は我ひとりでない。生命は我と共にありと。命は万物と一体であるという事ですね。 「命は万物と一体である」と。我の命と樹木の命と、動物の命とこの自然環境にある、ありとあらゆる物における所の命と共にある。というこの見方の方が物を見つめ、考える上において一番大事な基本となる命題ではないかと思います。この中心の座標に何を置くかにおいて、我々の考えが前を見つめるか、左右の脇を見つめるか、後ろの方を見つめるかにおいて変わってくると思うのです。

現在は春と言ってもまだ寒気が強いですから、新しい若芽がこの枯れ木に出てはいません。けれども、冬において樹木を見ると、表面から見ますと、死んだような樹木。 枯れ木という表現がありますから、枯れ木になった樹木すらも、春の気配、目に見えないけれども、春の気配を感じてくると命の無いと思った枯れ木から新しい若芽をだしてくるんです。それなれば枯れ木の中に新しい芽を含んでいる生命があるかと思って、木を切ってもどこを切ってもないのです。無い所に命があるんです。無即命。命即有。こ の関係を数霊は見ます。

無即命。命即有ですね。この相関の関係を念頭に第一命題として、物事を見つめなければいけないと。我々の日常の生活から見ますと、常に左右に振り回され る。あの人がこう言った。あの人はこのようないいものを食べている。このようないい家に住んでいる。私も欲しいな。自分の家族にもこれを与えてやりたいな。これなんですね。

それと我々の生命は常に後退しないですね。生命が後退するとするならば、春が来ても芽は出ないし、我々の成長もありえない。年がら年中赤ん坊の生命なんです。だけれども、自分は年をとらないといっても年をとる。年をとれば生命は成長しているという事実は、生命は常に未来に向かって動いているんだと。働いているんだと。それが言えるわけですね。

命は未来に向かった、方向性がある。未来への方向性をもっています。だから来年はこうしたいとか、来月はこのような営業を伸ばしたいと。来年は家を建てたいと。来年は車を変えたいと。そのような自分の中の心に起こってくるものは、心から起こるように見えて、その本体は生命がしからしめている実体なんです。これを皆さん知っておられるんだけれども、また一番中心なるが故に、考えていないんです。ですから皆さんの行動は、考えていない物事において、行動があるんだということです。

考えてみない事ということは、心理学的な表現をとりますと、無意識の世界において、動かされているものこそわが命を運んでいる実体なんです。ですから自分自身が考えて行動をとっているように見えて、その実その考えすらも命の中から涌出しているんだと。それが結果から見て思うわけです。

ですから物事をプラスに解釈する、マイナスに解釈する、善悪に解釈すると言っても、本体が一つだけにおいては成り立たないわけです。そうすると、やはり必ずや命は 自分だけの命でなくて、先程言ったように命は万物と一体であると。全体ですね。他の中の一つの命である。それが言えます。

その事は皆さんが、現象の世界に自分が求めるんではなくて、無意識の中に生み出されて、浜松なら浜松家に生命を宿したと。それは思って生まれたんではない、そこに命の在り方を考えなければいけない、忘れた大きな原点があると思います。

そうすると、皆さんがまた地球環境において、日本に生まれなければならない、何の理由もないわけです。アメリカに生まれても、インドに生まれたって、また太平洋の 孤島に生まれたっていいはずなのに、日本に生まれたという事実はどうする事も出来ない、人間の力を越えた世界と言うしかないわけです。

そうすると、命は親が生み出した命だと思っているけれども、親すらも自分の生命は何処から出てきたか分からないんだと。そうすると、命以前に何かあると、そこに宗教で言う所の神の設定を人間は考えてくるわけです。そのように置き換えでなければ、ものを説明できない。認識できない。そこに神という概念が自然発生的に人類の生命から(浮かび上がってくるんですね)。この長い生活の苦闘の中から浮かび上がってくる ものが、神の姿なんですね。

そうすると、神というものは根源だと。よく宗教的な解釈でいわれるのも、故無きにしも非ず。やはりここに生命を越えた、生み出したものとしての認識があるわけです。 特に日本の場合においては、一木一草、山、川、海もあらゆるものを一つの生命として、神としている認識は今言った「命は万物と一体である」そこに日本の古来から一貫した 認識の本体があるわけです。

数霊というものは、何をもってそれを捉えるかと。それは言葉によって捉える。人間の精神というものは、どこまでも言葉によって物を見つめ、考えるんですから。考える元は、言葉によって考える。物によって考える以前に言葉によって考えるんです。

そうするならば、言葉は我ひとりにおいての言葉ではないはずなんです。我と汝との共有における言葉であると。そうすると、言葉はキリスト教神学でいうところの「神と共にありき」というヨハネ伝の冒頭に書かれた言葉というものは、真実を語っていると感じるわけです。『神は言葉と共にありき』ということは、我々の認識、我々の存在は全て言葉において、現象世界の中に位置づけられるんだと。

日本だけではなく、地球環境の中において位置づけられるとするならば、そこに自然における生命の序列ですね。去年生まれたAという人と、今年生まれたBという人は 同じ生命であっても、置かれる場所は違うんですね。

ということは、置かれる場所が違うという事は、当然時間が違うんです。時間が違うという事は、置かれる場所が違うんだと。置かれる場所が違うということは、生命の自然発生的な序列があるんです。「生命の序列」です。これは家庭においても、父、母、 子。孫と。これは誰が決めるんではない、自然の生命の流れの中に起こってくる、「序 列、位」ですね。

またある会社に入ったといってもそこにも序列があるんだと。また自然の中の植物の生成を見ましても、春、繁茂する樹木もあるし、春は眠ったような状態になって夏ごろ に眼を覚ます植物、草花もあります。秋の生命もあります。
春になれば、あらゆるものが春かと言うと、そうではなくて、竹は秋ですね。秋の竹は春という逆投影した条件にもなってきます。また冬においては冬は全部植物が枯れ るかと言うと、そうではなくて冬の植物もあるんだと。これは、自然に置かれた時間の生命の序列がしからしめてある姿を我々に知らしめているわけです。

この序列があるという事は、哲学的な表現を取りますと「我と汝」というような表現でよく語られるものは、これなんですね。我と汝ですね。それともう一つ吾というものがありますね。これも『われ』ですね。この吾は自分自身個人的な表現の吾という条件の吾という認識。われもというのは、これですね。そうすると、これは二人称的な条件がある。

ということは、『われ』という表現は自分だけなれば『われ』という言葉は発生しないですから。『われ』という表現は常に相対的な条件において、『われ』と言う認識 が成り立つということなんですね。

そうすると、そこに自然に置かれる構造というものも、起こってくるわけです。家庭と言えば必ず、父?母?子ですね。親と我と子供という、この自然の生命の流れの中においてあるものは、自然の序列、序列即構造に繋がってくるわけです。序列即構造に はいてっくるわけです。構造性ですね。これが自然の内に成り立ってくるわけです。自然の内に成り立ってきます。これは好む好まないに関わらず、そうなるわけです。

皆さんが海に行きまして、鰒(あわび)なら鰒を美味しいなと思って食べますけれども、あの鰒の身をとってみても、あれだけの柔らかい(食べればコリコリしますけれ ども)あのような柔らかい軟体の魚介類でどうして人間がつくれないほどのあの固い甲羅をつくるのかということです。これは現在人間がいかに進んでも、あの固い甲羅を築く事はできない。また蟹においても、あれだけ自由に敏感に出たり、はいったりする肉体をもっていながら、あれだけの甲羅を造る事はできない。

そのように、AならAという、生命。BならBという生命は、置かれた場において、場の作用をもっているんだということです。松は海辺によくはえると同時に山にもはえますけれども、海岸ぶちには竹はあまり生えないですね。そのように生命が育つということは、必ずやその生命が置かれる条件。生命が成長する条件が無意識のうちに自然に場を求めるんだと。特に御婦人の方達ならわかりますけれども、何の智恵もない赤ん坊が生まれて、どのような仕種をするかということなんです。

光のある方向に眼が向くんです。音がする方向に頭が向くんです。これは誰が教え たのでもない、お父さんもお母さんも絶対に教えないのに、自然に与えられています。この動作は。これはもう、人間の認識以前の根源に繋がっている一つの働きであると。 また、腹がへればちゃんと泣いて知らせますね。
お腹がこわれれば、やはりちゃんと泣き声において、知らせる。この智恵はどこから起こるのか。これは知識ではないですね。そうすると、竹は竹。松は松。梅は梅。そのように自然に置かれた場所。置かれた時間。この環境においての働きというものは、 自然に与えられてあるはずなんです。それは数においても同じです。

1の数。2の数。3の数。これは自然数といいますね。自然の流れる如くです。順 番にあります。1から急に4になったり。急に5になったりするということは、ありえないですね。必ず1、2、3、4、5、6、7、8、9というように繋がってきます。 自然の数の中にも序列があるんです。また数の中には、自然の働きと同じように、構造性をもっているわけです。数の中には、構造性をもっています。
数の構造性があると、AならAという物事における質ですね。質と量との関係が分かってくるわけです。皆さんが新しい商売を始められるとなりますと、皆さんが沢山やっておられる業種なれば、過当競争になってきます。だけれども、あまりやっていない業種なれば、まだ敵のいないような所は進むような条件ですから、割りに簡単にシェアを 広げる事が可能なんです。

そうすると、数量というものは、当然また質を回転する力があるんだと。それが言えるわけです。それはどこからみなければいけないかと。全体から見る捉え方ですね。 そうすると、日本なら日本の条件から見たら松はどの地域に分布しているかと。また蝉なら蝉がどの分布において、一番多くあるかと。

桜前線というような表現もあるように、時間において、その春は桜だといっても、 地域における序列があるんです。自然の流れ、時間の流れ。置かれる場において、序列、進行方向があるんです。それが我々の生命の中においてもこの自然律と同じような条件が付与されているということをよく知らなければいけない。

そうすると、我々はひとりにおいて生きているんではない。我と汝との関係、我と全体との相関関係において生きているんですね。皆だれしも一生懸命努力して生きていると思っているんです。だけれども、それなれば植物でもそうですが、赤ん坊でもそうです。それは生命あるものは皆自分で生きているかと言うと、自分では、ひとりでは生きられないんです。

特に生命が進化した条件では、なおさら自分ひとりの生命であって、自分ひとりの 生命を保つ事は不可能なわけです。それは一番よく分かるのは、赤ん坊の姿をみればいいんです。赤ん坊がたとえ母親がら生まれたとしても、他の人々の生命の手助けがない 限りにおいては、餓死する運命が100パーセントです。

そうすると我ひとり生きているんだ、人間が努力すればいいんだというこの考えを ひっくり返すものがある。他の人々によって生かされてあるという、物の見方。そこにまた宗教的な物事があるし、団体的に共同において、守ろうではないか、とそのような条件になってくる。

これは職業的な面においてもそれがあります。それは資本家は資本家同士で集まる。 労働者は労働者同士で集まる。これは自然の序列が違えば行動が違いますから、資本家と労働者はなかなか一緒になりづらい。水と油のようになりづらいんです。

また人間の心をみましても、不動であるという現在までの仏教的な解釈から見ると、 絶対不動なんだから、右に左にならない筈なんです。前も後ろにもならないはずなんです。けれども、人間の心の奥を静かに眺めると、労働の場において、我が我がというように利益の争奪戦が始まります。Aという人よりも、自分の方が100円違うとか。1000円違うとこれは必ず動労争議になってきます。
しかしこれが宗教団体に入るとその人がもらうんではない。出すんです。それだけ ガリガリで、たった100円、500円、1,000円の小さな条件をゴチヤゴチヤ言ったものが、100,000円でも1,000,000円でも出す心はどこにあるのかと。この相 反した心。

そうすると、今までの表面的な道徳論。表面的な倫理観では解けないものがあるんだと。そうすると、宗教云々、哲学云々。また人間的な物事の考え方において、やはり心とはなんぞやと。また運命的問題を研究される場合でも、運命学云々よりも、まず心とはなんぞやという原点。その心を生み出してくる生命の在り方。そこに目の視点を第 一番において、そこから順序よく学んでいく必要があります。序列がありますから、自然の生命の序列があるんですから、物事の発展は即生命の発展なんですから。

そうすると、一つ一つの順序をおって、学習しなければいけないわけですね。これは物事の発展と同じようなものです。自然に一段階、一段階成ってきますね。植物でも 花でもそうですね。一つ一つ段階をもって、序列をもって成長がはじまってまた枯れてくる物なんです。また春なら春の樹木が草花がいっぺんに咲くかと言うとそうではありません。春の中にも間断なく序列があるんです。

一番初めの春は何かと言うと、よく言う所の春の気配がくると土筆がでると。これ は第一番の春を告げるものです。鳥でもそうです。春を告げる鳥があります。人間でも 春がくれば戸外に出たいという、誘い出すのではない、出たいと。家で縮こまっているのはいやだと。とにかくさっぱりしたいというのは、何なのか。ここに常に心が中心で あったという今までの文献的な捉え方の中に、不動といわれる心に変動の心があるだという実体をよく知る必要があるわけです。

それと同時に生命すらも置かれる場において、変革があるんだと。皆さんは生命は 赤ん坊の時の生命と、今の生命は同じ生命なんです。だけれども、置かれる環境、置かれる自分の働きにおける(生命の質は働きとみなければいけないです。)そうすると、 生命の働きという事は、赤ん坊の時の働きと今何十歳という年令を加えた生命の在り方では、働きの質、量が違うはずなんです。

また人間関係、物との対応の条件においても、数限り無く成長を踏まえた包含した 生命であるはずなんです。そうすると、そこに当然赤ん坊の時の対応はこれは無意識において、対応になりますけれども、その時には家族だけの親族だけの対面ですね。生命の対面。それが大人になると一人二人ではないんです。何十人、何百人との人との繋がりができる。またそこには人脈というものがあります。人にはまだ物における系列があります。AならAという物が好きというこの物の系列があります。

自分の身辺に人の系列があるとするならば、自分の好みにおける物の系列というものは、無意識の内に選びだされている物なんです。それと自分の生命から生み出されて いる心は、宇宙における自然の働きにおける、春、夏、秋、冬という四季の循環のように心が、常に変化し、その心の春の心、夏の心、秋の心、冬の心、というような四段階 において、自分の身辺に集まってくる物や人達があります。人間関係の交流。また物との対応における交流。それが自然に行われているという事実をよく知って頂きたいんで す。これは案外分かっているようで、分かっていないはずなんです。

そうして迷えば迷うというのは、今いった生命の本体の在り方を考えないから、迷うわけです。船なら、船の行路における目的。生命の働き。羅針盤を失うから迷いが出てくるし、留まりが出てくるんです。

皆さんは俺は元気なんだと言っても、三日三晩一睡もなしでは、働けない。 絶対できない。例えできたとしても、一週間目にはダウンして半死の目に合うんですから。そうすると、人間は年年歳々、働きだけにおいては生きられないという事実なんですね。そうすると、必ずや物事には眠りの時間と、働く時間とが交互にやってくるんだと。 これは植物においても、草花においても動物においても、また同じなんですね。そこには生命の働きにおいては、動物も人間も樹木草花も同じなんです。魚介類においても同じなんです。それは郷里を離れれば、都会で出世しようと思えば、そして離れて何年か たつとやはり郷里への思いが馳せてきますね。帰ってみたいな。多少でも成功したり金ができたりするとつい帰って見たいなという心がでますね。失敗したら帰ってこれないんだ。常に心の中には原点の場があるんです。

常に自分の生まれた場が在るんです。成長して年令がたってくると、親がいる時には郷里に帰り。親がいなくなると、兄弟だけになると、うすくなるんですね。これは自分の生命の紐帯の断絶が起こってくるんです。
そうすると、物事においてもそれがあります。離れれば、原点にまた回帰しようと する心が勸きます。これは動物においても、鳥類においても、また竹においても、また 生命の発祥の地にまた帰ってくるんです。人間もまた同じような生命の回帰性をもって いるということなんです。

それを数霊の方では数において捉えようとするわけです。言葉において、捉えよう とする。その只単に言葉といいましても、今言った言葉と昨日言った言葉は同じ言葉を 語っても質が違うんですね。また環境が違います。この数は言葉であると。言葉の中には文字における言葉と、数における数詞における言葉の2種類の言葉があります。そう すると、常に我と汝の相関関係における所の兼ね合いは、どこまでも文字が主体なんですね。

そうすると、数というものは、裏に隠れたものですね。皆さんは我と汝。自分と相手と初めて初対面の時には「私は何歳です」とは言わないです。名前を言います。必ず 文字の世界から入るのが言葉の世界。
そうすると、言葉というものは、どこまでも陽の世界の働きです。またプラスマイナスという表現をとれば、生命におけるプラス面を象徴するものなんです。そうすると、 数というものは、どのような条件かと言うと、古語では数と書きまして、読むといっています。数というものは、読むと言っています。これの一番顕著なるものは、古事記の中に出ておる月読み大神ですね。月読み大神の場合は、月を読む大神といっていますね。 月を読む。ですから指折り数えてという条件は数というものは、只単に物の数量的な条件だけでなくて、時間性を含んでいます。時間性によってその数詞の持つ意味合い、質が変わってくるんだという事を示しています。

月齢といいますね。これはどこまでも年の事ですね。今日は三日月とか。これは全部数えた所の条件を言っています。そうすると、それは何処までも置かれた質、時間の経過。序列。作用。質。それらの煮詰まったものが数の面に投影しているんです。皆さん の生命においても、1歳の時と30歳という時には、30という時間が含まれているんです。そうすると、30という時間が含まれた数詞の中におけるものは、自然における序列ですね。

よく会社の官庁に入れば、何年組みといいますね。全部時間における序列の事ですね。そうすると、当然その序列における構造性というものはある。これは学校の先生なれば、すぐわかりますが、今年入った新入生はどうも、できが悪いとか。去年入った 新入生はみな頭がいい。これはあるんです。教育以前のものですね。それは何において起こるか。これは自然の命の時間です。ですから命の質はやはり時間において生み出されてくるんだと。それが言えます。

そうすると、数霊(かずたま)というものは何かといいますと、霊(れい)という表現はどちらかと言うと仏教的な儒教的な意味合い。本当の日本の古代における古語から見ますと、霊と書いて「たま」読むんですね。生命であると。 生命の働きを霊と見るんです。そうすると、この生命の働きを数に置き換えて読むのが 数霊の本儀であると。そうするならばそこに只単に、成功するとかしないとか、数霊をやれば金が儲かるとか、金があればよくなるんだというような、確かに利益的な現世利益的な宗教的な考えの一面も自然発生的にありますけれどもそういうものではありません。。命は無であると同時に有なんです。

ですから、数霊を勉強すれば金が儲かるというのも、一面はありますし、これは無いんだというのも、またこれも正しいんですね。それはどこまでも置かれた時間帯を最髙に生きる事なんです。活用する事において、自分の生命の活力を付加する事ができるんです。休む時に休み、働く時に働くと。自分の性能が春の条件にあった生命なれば、 冬働いたらいけない。疲れるばかりです。効率は無いと。

そうすると、春の気を受けた生命なれば、春に合わせて種を蒔けば、自然に成功してくるはずです。自分の性能が120パーセントにも、150パーセントにも発現してくるんです。夏に生まれた人はやはり、春種を蒔けば早すぎるんです。そうすると、春なるものは春に(蒔かないで)置くと。夏が夏の物に置くという事は、善は善としておくんだと。宗教団体にいたら、何もかも善にしなければいけないというような事では、命の道とはいえ ないんです。

この地球環境におけるものは、善悪共にあるんです。自分の心の中にも善悪共にあるんだという事です。それを現在の宗教は悪を滅ぼそうとする。これは善を見ながら、善を殺す事になる。そうすると、我々はどうすればいいかと。そこにこそ宗教的な考えを越える世界がある。

この地球環境において、善悪共にあるんだということです。その事を考える事こそ、 人間の命とはなんぞやと。我と汝との条件はどうあるべきかと。それを考えの面と現実との一致に求めるのが、人間の文化の発展というものなんです。宗教の発展ではないんです。

現在までの宗教が人間の人類の文明の発展において、どれだけ大きな阻害観を 植えつけてきたかと。これは人類の歴史を紐解けば、よく分かる事なんです。宗教団体の足枷がどれだけの人間を精神的な牢獄の中に繋いだのか。また人類の発展において、どれだけ宗教が大きく頭を押さえ、足を引っ張ってきたか。これは中世の暗黒のキリス卜教の条件を見ましても、ハッキリ言えると思うわけです。
また徳川期における所の、キリスタンの弾圧において、神は絶対なんだと信じておりながらも、弾圧される事をどうする事も出来なかったと。そうするならば、絶対ではありえないんです。この事を宗教を語る場合に、考えなければいけない問題です。

また我子が瀕死の重症において、祈りだけにおいて救えるのかと。また明日、あるいはーカ月半後に、不渡りが出る条件に追い込まれた時に、祈りだけにおいて不渡りを止める事が出来るのか。これか解決できなければ、社会のリーダーとしての指導学理には、絶対なりえません。

そこに宗教の問題点があると思います。また哲学においても、それだけのものがあります。現在は哲学の貧困だと言いながらも、常に哲学書が読まれている。また大学には哲学の学者もいる。だけれどもあのドイツの混乱期において、哲学者であるフィヒテがどれだけの社会に対して、哲学的な見地もって国民の救済の論陣をはったかと。

戦後において、現在の哲学者はどれだけの論陣をはったかと。誰もいないんです。 また宗教家は民衆を助けるんだといいながらも、大きな混乱期において、どれだけの宗教の中から大衆を助ける事が出来たかと。誰もいないです。そうすると、我々のこれからの在り方というものは、それすらも否定しそれすらも、こえなければいけない。今
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先程申し上げましたのは、数霊というものは、なんなのか。それは自然の中におけるどのような次元における物の見方なのかと。また心と命との相関関係はなんなのかと。 どちらが中心なのかと。その問題に対して、現在までの既成の物事の考え方。それとの 比較対象をやってきたわけです。

次に数霊を勉強される場合に、数霊の場合には基本的に見ますと、井桁に書いた、 正方形を使いますから、これは気学ではないかと、またこれは方像学ではないかと、九星ではないかというような自分がもった既成概念から見て、これを見ようとするわけですね。これも無理ない事だと思います。だけれども、それなればその気学を知っておる 方。方像学と命名された条件において知っておられる人、九星という表現において、その盤を知っておられる人。共に何故この9つの場において見なければいけないかという よってくる原理を知らないんです。
ただ原理はこうであるというのは、10人が10人 中国における、河図落書の中を引っ張ってくるのが、これが真理の原点があるではないかと、いうのが今までの文献学的な条件。また知識の伝達者の中における、認識はそこでストップ。それ以上は進まないんです。

数霊の目というものは、どこにあるかと言うと、河図落書はどこから出てきたかということを遡ってくるんですね。今までの研究家というものは、河図落書にこうあるんだと。それで一応ストップですね。私達は違います。それ以前に遡ってきます。周易があるとか。現在の易は周易だと。それならば周易以前は何があったかと。連山、亀蔵易ありと。それなれば、その研究をやってこられた人達は連山とはなんなのか。連なった山と書きます。連山易ですね。亀の蔵の易ですね。
そうすると、連山亀蔵易とはなんなのかとなりますと、これは文献にはないから終わりなんです。それなればどうして河図落書を原点とするのかという事になりますと、信憑性は弱いわけです。

物事の論証というものは、それだけでは正しい認識であると、文献が正しいという事にはならないわけです。現在まで研究家はそれは自明の理としてそれ以上を見ないのが、暗黙の内にさわらないと、神聖化してさわらないわけですね。ですから神道家の中にも、これは神のものなんだという表現で神聖化しているわけですね。

そうすると、私達の数霊の研究の目から申し上げますと、漢字に書いた神聖という条件からみますと、これはなんなのか。これは聖である。聖はなんなのか。これは言霊的な解釈を申しあげますと、日を知る事。日知りなんです。日を知る事においてあるんです。ですから人類の歴史から見ましても古代における帝王の政治の第一義は民衆に暦を知らしめるのが、西洋の第一義の仕事とされているのもそこにあるわけです。その古語の解釈の例から申し上げますと、鎌倉期仏教における日本の仏教観において、聖人と書いたものにおいて、聖が分かったかということになると、これは疑問なんです。

早く申し上げますと、日蓮聖人とか。親鸞聖人とか。そのように聖人と書いておりながら、案外暦日の問題においては、疎い人がいる。晩年の日蓮聖人はようやくそこのところに気付きまして、宗教、特に法華経を信ずる事は、時をまず修すべきだと。時間とはなんぞやということを学ぶ事が仏教を学ぶんだと分かってきております。そして 身延に入山された後は、どのような条件にしたかと言うと富士山の頂きに、3月の春分のとき、秋の秋分の時に太陽が登るものをそのまま神殿の鏡に受け入れるという、この時間における解釈を神殿に施しているわけです。

それなれば日蓮聖人が絶対の宗教家というと、さにあらずで、それは神道の世界においては、特に大和朝廷の聖武天皇、 また持統天皇の条件においても、ハツキリいえるんですけれども、あの大和三山の在り方は暦日の在り方の解釈なんです。特にそれが顕著に見えるのが、現在の桜井市にある 所の大神神社ですね。三輪山の在り方はここにあるわけです。

ですから、大神神社における第一の大きな祭祀は春における卯月の卯の日の卯の神事です。そのように解いているわけです。卯の祭りがあるわけですね。これは卯の条件は現在の条件から見ますと、太陽が0度の時点に差しかかって、そこから新しい春の気 が出てくる所の祭りなんです。

それにおいてある。それを日蓮聖人が残されたんだと私は感じとっております。そうすると、またそれはどこまでも、古代における所の農地における条件。そこにいろいろな農地に纏わる神々を想定しております。日の神だ、水の神。月の神。そうすると、 そのような条件は何によっておこるか。

やはり時間。暦日の問題が大きく浮かび上がってきているわけです。そうすると、 古代の思想というものは、古代における宗教というもの。また古代における神学というものも、どこまでも基本は暦日においてあるんです。それは何かと言うと、やはり人々が生きる為における漁労におけるもの、また農事におけるもの。また狩猟におけるものも全て、暦日を中心とした生活の基盤があるんです。それはありとあらゆる生成の与奪は暦日において握られているからなんです。
だから暦日において、我々の生命の未来の働きにおいて、不安なからしめる。やすらけき精神の条件を得ようとすれば、当然暦日の条件に目をむけるのが、自然のなりゆ きだと思います。

皆さんがある事業を経営する場合におきましても、過去の帳簿を調べるというのも、先を読もうとする一つの現れなんです。だけれども、それは過去に遡っても、これは時間の解釈にならない。それは結果だけの読みですから。あの時はこうあった。この時はこのようになって、これだけ儲かった。またこれだけの事をやりながら、これだけの損をしたということであって。時間的な読みは帳簿の面では読めないんです。ということは、 現在の人間の生命を維持しておるということは、時間において、維持されているんですから、維持していると同時に、維持されている。

そうするならば、もっともっと変わった帳簿の見方があるはずなんです。そこに未来予測という条件がありながら、時間質の追求がなされていないから、常に未来予測が狂ってきます。あの石油ショックの48年の条件においても、どの専門家もそれを読み取る事が出来なかったわけです。だけれども、数霊では前もって経済の動向を知らなくても、読めてきたんだと。何故なのかと。ここに考えなければならない問題点があると思います。

それは先程申し上げましたように、赤ん坊は自分の知識がないんです。今言ったように数霊的な面から見ると、経済の知識がないんだと。経営の知識がないんだと。それなれば、経営がわからないかと言うとわかるし、経済がわからないかと言うと、わかるし。 それは赤ん坊が誰も教えなくても、母親のおっぱいを求めるんです。そうして食にありつくんです。渡り鳥は春の気配がくれば、渡ってくる。秋になればまた渡っていく。

また冬になってもまた渡り鳥がやってくると。その回帰性はなんなのか。これは誰も教えるんではない。生命が感知するものなんです。そうすると、知識以前に生命の感知がある。生命の鏡。日本の条件では命の事を鏡といっています。ここにこの鏡というのを最大限に解釈しているのが、三種の神器における所の鏡です。

そこに断ち切る。これもまた命に関係がある。また勾玉もこれも命の三種の中にあるわけです。太刀は断ち切ること。よいか悪いかを断ち切るのは時間にあるんですね。 あらゆる思い。あらゆる感情。あらゆる知性。あらゆる物を無にし、有にするこの断ち切りは時間にあります。

その意味では時間は絶対の神としての働きをもっています。絶対の大きな力は時間にあるんです。人間の学問にあるんではない。
そうすると、我々がこれから如何にすべきか。どうあるべきかという問題を考える場合に、やはり大事なのは、時間の研究が大事であると。特に女性の方はよく御存知だと思いますが、我が子が懐胎されて出産する時にはどのように言い伝えてきたか。月満ちてという表現があります。月満ちて玉のような赤ん坊。玉は命なんです。これは誰が おしえたんではない、語り伝えている所の人間から自然に出てくる所の言霊にあるんです。

月満ちて。これは大事な事なんですよ。月満ちて。玉のような子。これなんです。 玉はこの玉なんですね。只、物における玉ではない。そうすると、玉という物になぞらえたこの条件は何なんのか。水の玉ですね。火の玉ですね。これは言葉の上にあります。 火の玉。水の玉。

そうしますと、言葉を文字に写し変えた玉という表現は、これは鉱物的な玉を表現します。固まった条件ですね。固まった条件を玉という表現をしています。そうすると、 もう一つ珠があります。こちらの珠は水に縁あるものなんですね水玉。そうすると、ここに『タマ』という表現の中に煮詰まっている質という物は、水火の考え。中国的な表現をとりますと、陰陽の表現の生命の働きが煮詰まっていることを示します。

また生命の働きは燃え上がる火の状態の性能をもっていると同時に、また水滴の水玉のように、玉になってくる。この自然発生的な条件を示しています。これは鉱物においても、火になると必ず玉になります。飛び散ってきます。それは溶鉱炉の火の玉の飛び散る所をよくみればよくわかります。全部玉になっています。
そのように玉となって出てくるのと、二つの条件があります。水の玉と火の玉というの条件があります。この霊も『タマ』なんですね。そうすると、形にならない気としての玉の世界があります。物にならない気としての玉が万葉の世界では言霊の幸わう国として語り伝えられている伝承の中に行きづいた言葉としての、音霊(おとたま)としてのこのタマの世界が息づいています。 タマ。

あともう一つ数という漢字で、数数と書いて『シバシバ』といいます。後は数多と書いて『アマタ』ですね。そうすると、
数は『アマ』という言葉の質を内包している事がわかるんです。
そうすると、数というものは、いわゆる漢字に当てはめますと、天の物だということが文字の面から見て言えるわけです。数はまた『あま』という読みをもっているんだと。質があるんだと。『あま』という条件はなんなのかと言うと、天の事を『あま』といっています。これは古事記の冒頭にある所の天地という。そうすると、『あま』とい うものは、土という国の条件、自然との在り方との対応においてある。時間経過ですね。

ということは、天地の条件は時間と共に変質するのが基本なんです。とするならば、あらゆる物事は時間と共に、変化する条件である。これは人間が生み出すもの、生み出されたもの。共に時間において、物事が一つ一つ変革し、次に脱皮し、次に生命が出る という循環の上において、春の四季の如くと。それを数において生命の働きを見ようと する。その働きを時間と言葉に置き換えて、その働きを読み、且つ未来に向かって活用するというところにおいて数靈の体系の在り方があるわけです。

現在の仏教という物は、仏教を語りながら日本仏教は大半が鎌會期仏教に向かって、 過去の仏教を語っています。それは生命の在り方に相反した宗教の態度なんです。それを如実に示しているのが、現在の寺の在り方です。人間が死んだ始末は寺がする。そこにまた何周忌、何回忌と過去に向かっての対面ですね。そうすると、我々の 条件は何を見なければいけないか。過去を背負いながら未来に生きているんです。それ はどの人でも過去の歴史を踏まえて、中に包含しております。いい面も悪い面も。隠したい面も、出したい面もあらゆる物をいっしょくたにした物がある。これが生命の中にある。また心の深層の中にある。自分を越えた先祖代々の血の中に伝わった所の吉凶、 善悪の全てが自分の血液の中にある。血の繋がりですね。

それは何によっておこるか。時間においてあるんです。血の繋がりは只、単なる時間ではないんだと。言葉の上に生命が生まれるんだということです。人間の生命は言葉 の中に生まれるんだと。この事をよく覚えて戴きたいんです。時間と共に言葉の中に生まれるんだと。

命は時間で、時と言葉に生まれるんだと。これは若し、時間だけに生まれるとするならば、私の数霊の四次元の中に一例を示して起きました、インドにおける狼少年の例 のように、同じ人間の生命と生まれながら、言葉が断絶した世界に生きた場合には、人間としての役目の働きが弱まってくる事を示しているわけです。とするならば、生命を育てるものは、やはり言葉であると。だから言葉によって心の領域が広がり、言葉によって我々の頭脳が発達し、それによって物事の認識が髙角度に発展する事を物語っています。

そうすると、我々の思考というもの、我々の行動の第一義に置くべきものは、時間と言葉を同時に読み取る方法を身につけなければいけないと。只、大学に行って、社会では忘れるような知識を身につけるのが学問ではない。それは生命の中心がなんたるか。 その働きのなんたるかを知る為の門戸である。という事がいえます。

ですからよく大学を出ても、何にも役に立たないんだとという言葉が代表するように、それはただ通行手形でしかないんだと。そのような事が無意識の内に誰いうことなく語り伝えて来たものです。この事をよく知らないといけない。ですから数霊というも のは、特にこれを中心としてみる。そこから未来に向かって生み出してくるんです。またこの中において、産んでくるんです。

そうすると、中国的な表現から見ますと、太極陰陽を生ずというように、中国の哲学の根本はこうなっています。あらゆる中国的なものの認識は太極陰陽を生ずという、 3つの言葉の在り方の上になりたっています。

太極陰陽を生ずと。これが中国哲学の基本の命題になっております。それなれば中国認識における所の太極陰陽を生ずというこの捉え方は、絶対に正しいのかという事を、 吟味する必要があります。ということは、中国文献を紐解いて、冷静に目を通しますと、まず第一番に気付く事は、大半が陰陽論なんですね。大半が陰陽論を論じております。

太極というのは、数学の中で1、2、3、4、という数詞はありながら、1とはなんぞやという事を証明しないまま、2から計算しておる現在の科学的な数詞の取扱と一脈相通ずる点があります。また西洋的な認識における唯物弁証法の哲学におきましても、 正反合ですね。正反合というようにやはり中国観と一致した見解を示しております。 これは大事な認識論です。

中国では、太極陰陽生ずと。中国ではここから始まってきます。太極が1。それから陰、陽と。
この順番に語っています。

太極陰陽。太極陽陰ではないですね。これは大事な事です。この序列ということは。 太極陰陽なんです。これはあり触れた見方ですけれども、意識の迷路になっています。

それに対して、西洋で言う所の正、反、合は逆に流れています。これわかりますね。 中国では太極陰陽と流れているんですね。西洋では正反合と。これは合反正という解釈ではないですね。この図式、方向性。これは方向性ですね。序列ですね。これは相反しているんです。

東洋の認識はこの太極陰陽を生ずということは、出る方向の形ですね。出る方向の働きですね。こちらの方は働く方向ですね。能動的な捉え方をしています。これに対して、西洋的な条件。西洋の認識は、入る、受動的な表現を語っています。正反合。また この表現を変えますと、東洋的な場合は、太極陰陽ということは、個から見て他に移ってくる。今度はこちらの他から逆に個に帰ってくる。これはまた別な表現を取りますと、東洋は1から出でて、10に入ると。西洋では10から出て1に帰ると。

そうすると、この正反の相反した在り方を再度全体的に統一、統括した場合には、どのようになるかと申しますと、正反の解釈をまた一つにまとめなければならない。1から10に流れたもの、他に流れたもの。10の他から1に帰るものは、発散と同時に収縮の条件なんです。二つの働きにおける条件を示している事が分かるはずなんです。

そうすると、この条件を踏まえて図示した場合にはどのようになるかと。

そうしますと、真ん中にあるわけです。そしてこちらはこのようになる。こちらは 陽である。こちらは陰である。反対側は正である反である。真ん中は合である。これは 太極である。このような図式が成り立つわけですね。十字になります。別な図象をもって示しますと十字の形象に突き当たります。
キリスト教神学では、十字が神聖な物として、あらゆる物を象徴した条件として宗教的な面におけるシンボルとして捉えております。

それならば、キリスト教神学があらゆる認識の基本であるかとなりますとさにあらずです。これはキリスト教以前において、すでに十字架はあるんです。太平洋上においてもあるんです。南洋諸島におきましても、またエジプト中近東、また地中海文明におきましても、この十字の条件は無数にあります。キリスト教がおこる以前においてあります。この歴史的な変遷の条件が人間の人類の思いがどのような形をもって、これを捉えてきたかとなりますと、先ずキリスト教神学を超えなければいけないと。

また卍を表現する所の仏教の条件においても、これも仏教発生以前においてありますから、これすらも超えなければいけないと。この中国における所の孔子、また仏教に おける所の釈尊は紀元前500年ぐらいの出生で、本当に僅かの時間の前後において生まれています。東洋における本当の意味の原点。人類の原点として。大聖人として長い年月の間崇拝された所の釈尊とまた孔子において、常に現在の本場における中国においては、孔子の批判の運動が起こって、今まで東洋人が中心とした思想すらも打ち砕こうとしている事実はなんなのかと。

そこにも大きく目を見開く必要があります。そうすると、この十字にしろ卍にしろ何を意味しているのか。これは分かったようでわかっていないんです。これを数霊では 図式ばかりではなく、理においてこれを解くわけです。

ここに我々が忘れ去った文献の中、知識の中において、語り継がれ、また見て来た中において案外大事なものを見過ごしているんだと。文化の中の大事な面を見過ごして、 さざ波ばかり追いかけていると。それが言えます。そのさざ波のにおいて、週刊誌が隆盛を究めています。
この事をよく知らないといけないと思います。これは物事を認識する場合.存在云々という場合においても、また西洋、東洋文明の両方面を対比する場合には、今、図の条件の中心の一点において、正反と陰陽に分かれる条件の在り方をよく知る必要があるん です。

そうすると、正反の中においても、これは一部分の認識なんです。また陰陽という 表現も一部分における認識なんです。この事は同じように見えて、違うんです。それに 気付いてきておるのが、マルキシズムにおいて、どのようにこれをとらえようとしておるかと言うと、歴史的唯物弁証法と。歴史的という表現は時間的な結果における、積み上げの事実に照らしてというような表現になってくると思います。

歴史的唯物弁証法という表現において、その理方において、今の条件の修正をしようとしております。しかしそれは時間といっても過ぎ去った過去のものなんです。今は違います。現在は過去を背負っているといっても、半分は未来に向かっているということなんです。そうすると、本当の意味の唯物弁証法というものは、過去に向かった歴史的な唯物弁証法でなくて、未来に向かった唯物弁証法的な考えこそ新しい科学的な認識であると言えます。

また中国における所の太極陰陽を生ずるという条件におきましても、陰の中にも陽があり、陽の中にも陰がある。これを中国では陰陽四象を生ずると言う、一方的な流れの系列だけを示しています。その相関関係を解いているのが、8×8の64卦としての周易の中に統一されております。

それなれば、周易的な易経の本体は、歴史的に献学的に照らして中国が絶対的に中心であるかと言うと、さにあらずで、私の数霊の四次元の中に書いたように、古代ギリシャのピタゴラス教団におけるもの、君達が10と思っているものは、という条件。また君達が4と思っているものは、実は10なんだと。そのような表現においても、これは易を語っています。その一端が私の数霊の四次元において表現しています。

孔子、また釈尊以前にピタゴラスは生まれているんです。そうすると、我々が考えている以前に違った面において、語られているんだと。ということに目を向けなければいけいないと思います。
そうすると、我々の知識の中に修正せざるをえない問題が多々あると思います。ですから物事の認識というものは、自然の生成の理と同じように、順序を追って、学習しなければいけない。

春が一変に秋になるんでは無いんです。春、夏、秋、冬は自然の絶対の原理なんです。これの変革は不可能なんです。如何に政治、如何なる経済をもってもこの地球環境におけるものを、変革はできない。一部分はできても、全体は変革は不可能なんです。

とするならば、絶対なるもの、不動なるものとしてあつかわなければいけないと思います。そうすると、この大きな時間の経過という問題から見まして、物の生命の発生する経路。また物の生命の介している条件という事をよく合わせて考えてみた場合に、何が足らないかと。片面観なんです。

現在の科学的な認識から見ますと、空間的な条件は、正6面体をもって認識の雛形とします。皆さんが映画とかテレビに出る所のいわゆる サイコロ。

テープカット

数が丸い玉において、つらなっておりますね。3の衷側には4。2の裏側には5と いうように、この3つの面が合わさった面が全て7になるわけですね。そうすると、この7はなんなのかという問い掛けをしなければいけないと思います。そうすると、この問い掛けの条件においてあるものは、まず頭の中にうかんでくるのは、聖書の中に神は6日をもってよしとした。1日は安息日とした、7日をもってという表現の中に似通ってものがあるんだと。それが言えます。またピタゴラスはどのように言っているか と申しますと、7は3と4とに分割できるんだと言っています。

古代ギリシャのビタゴラスは言っています。我々の現在的な目をもって、最吟味した場合には、7は3と4だけにおいてあるのではなくて、1と6においてもありますし、 2と5においてもあるものをどうして7は3と4とにわけられるのかという最疑問が浮かんでくるわけです。これは結果から見ますと、ここから皆さんが勉強された上において、数霊における亀甲形態を再吟味しますと、3と4とによって分けられるという、ピ タゴラス教団がこの古代ギリシャにおいて、語った在り方。認識の仕方において、真実を語っている事をハッキリ、正しく読み取る事が出来ます。

それは分かりやすくもうしますと、ここにテーブルがあります。机があります。正反ということは、皆さんの方からみますと上の右側における横の線を正とし、奥行き の左側の線をこれは、反の世界。東洋的な表現をとれば、横線は陽であり、奥行きは陰 である。西洋的な認識は横を正とした場合には、奧行きは反であると。それなれば太極は何か。頂角ですね。言葉を置き換えますと、頂角陰陽を生ずとなります。
正反合であると。ということは、横の線と奥行きの線を合わさったものが合であると。 それなれば合はどこまでいっても合なんですね。そうすると、今言った、正反合にして も太極陰陽という認識の基本の命題から見ましたら、社会的な条件。空間的な条件は それによって全て説明可能であるかと言うと、さに非ずで、どこまでも八分の一の認 識論なんです。

それは何故かと言うと正6面体の頂角の在り方というものは、上下において、四頂角。四頂角ありますから、結果とすれば八分の一の認識論でしかありません。
この八分の一の認識すらないものを、科学的な、哲学的な認識として、現在も何の 批判もないまま、受け入れております。これは人間の知性の滅亡論につながってくるも のなんです。この簡単の事実。この論理の仕組み。これを原点にもう一度目を見開いて、 皆さんの今までの人生において、学ばれた事、経験された物事を上からみても、再認識してもそのどこが誤って、どこが足らないかということが、よく分かってくるはずなん です。

そうすると、あともう一っ再度仏教的な認識からこれを見る場合、あの東洋だけでなく世界的に現在も語り伝えられている、釈尊の在り方を見ましても、釈尊が解かれたという、また纏められたという、仏教の根本義は何にあるかと、「四聖諦」にあります。これは俗にどのようにいっているかと申しますと、「4つのハッキリした正」なるものなんです。

苦集滅道と人間の一生を図式化した条件においても捉えられると思うんです。そうすると、この仏教の根本義であるという四聖諦はそれなれば、人間の本体をそのまま図式化しているかと言うと、さに非ずなんです。
何故さに非ずかと言うと、4つに纏めた在り方というものは、の空間的な認識、という事は、立体的な認識という事におきかえてもいいと思います。立体的な認識から見ましたら、4つにおける認識の四聖諦はこの正6面体の上の条件から見た場合、つまり上位にある所の四聖諦。この4つのものでしかないんです。

そうすると、仏教の根本義である所の四聖諦というものは物の二分の一の解釈論であるという事ができます。何故ならば、正6面体は裏から見た所の正6面体もあるんです。これが縦軸において、繋がっているんです。これは事実なんです。 これは正6面体のモデルを見ればいいです。それは先程申し上げましたように、テレビとか映画に出てくる所のヤクザが使う黒い壺の中に、入れるサイコロ。これは一つではないということですね。二つ入れてそれでサイの目を読むといことですね。

サイの目。歳(とし)の目なんですね。理なんです。2ついれなければサイの目は でないんですから。一つだけではない。それは何故かということですね。一つのサイコロは陽における(太陽における時間帯)。そしたら、もう一つの月から見た所の時間質なんだと。陰陽の時間質があるんです。我々の一日には聖書の中に一日は昼あり、夜ありというような表現になっているのは、そこにあります。

そうすると、時間におけるものは、昼の時間と夜の時間と。正の時間と反の時間と。 それが合わさったものが一日であると。そうすると、聖書に書かれた所の神は六日をもって良しとした。一日は安息日とした。ということは、安息日の中には、昼あり、夜ありです。ちやんと書いてあります。ハッキリ文献にそのような記述がありながら、一面観でしか見ていない。それはまた東洋の発想に切り換えますと、九星の条件を見ますと、九星は陰暦を中心としたものなんですね。。月の位相を中心としたものなんです。太陽的な陽の時間質が抜かれているんです。そうしますと、現在までの九星的な認識ではどこまでも、一面的な認識でしかないと結論できます。
(九星では傾斜占法という柱的な物の見方をする専門的な見方もありますけれども、後ほど説明がありますから、自然に分かってくると思います。)

またこれを場を変えて、言葉の面からこれを認識した場合ですね。現在までの国語学、また音韻学からみましても、文字、言葉というものは、人間の心の発露ですね。文字しかりですね。言葉しかり。 文字は数霊の面から見ますと、精神における物質化であると、物質であると。そのよう に結論づけております。文字は精神の物質化であると。

そうしますと、ここにもその作用がおこってきます。モノが生まれるということは、 心において起こるんだけれども、それはその心が置かれる時間において心がうまれるんだと。その心は何によって心が発動するかということを考えなければ、いけないわけですね。心は我一人の心ではないんだと。汝の心と我の心の対応において、そこに言葉ありなんですね。

我と汝である物との対応において、この物が欲しいなと。御婦人が町を歩いて、ウインドーを見た。ああいいドレスだと。このようなドレスが欲しいなと。これは物において心を引っ張りだされるんです。それと同時にそこに行ったから、それに出くわすん ですから、運んだものは、時間であると。

時間において運ばれ、そのウインドーに対面したのは、場において対面したと。この認識は大事なんです。これは西洋の認識論ではないんです。よくデカルトの『我思う、 故に我在り』と端的に言っています。これを皆受け売りをやります。これは正しいなと。 はやとちりして文章にし、また講演に語り、また講義に語っています。

数霊的発想は違います。我において我が考えるんではないんです。考えるのは我と汝との対応において考えるんです。我の心と汝の心の対応において我考える。それと同時に、我は時間と置かれる場において、我考えるんであるし、我と物との対応において、我が心動くんです。そうすると、心以前に我が命ありなんです。命において心が発動し、心が発動して、そこに考えるんです。考える事は言葉において考えるんです。そこに説明不足。デカル卜すらも読み違えた、読み落とした、大きな人間の存在論、認識論の原点が在るんです。 これは大事な事なんです。この分かり切った自明の理を現在の学者が解けるかと。

解けないんです。そこに現在の学多くしてのり違えた狂いがあるんです。それが現在の戦後における、新制大学が発足し、現在までの戦後における教育の在り方において、心が無くなったと言っています。心が無くなったというのは、なんなのかと。文字の知識。物質化だけを追っ掛けるからです。その文字を生み出してくる、言葉を生み出してくる所の心。心を生み出してくる時間と時間の置かれる場との生命との対応における、物の 原点を忘れたからです。人間の命、物の命を忘れたからこそ、心が無くなった教育になっているんです。
数霊を研究される前において、ここは大事な所ですからしっかり思いを致していただきたいと思います。

休憩

今言ったように、数の破壊数が分からないと。確かに初めての人は皆、破壊数にぶつかります。このような笑い話があります。

『経営の死角』を書いた時、編集者が印刷所から最後に編集する時に「先生墓椅子とはなんですか?」と質問して来ました。まさか墓に椅子はないよと言ったんですが。そこは文字というものは、物質ですから、固定化するという役目があります。

「墓椅子(はかいす)でなくて、破壊数(はかいすう)」

そうすると、音だけでは物を指示できないということですね。これは笑い話であり ながら、真実を語っています。音だけでやると間違います。そこに日本の言葉において、 一音一義として、万葉の世界に写し取られた音韻の世界は音の持つ意味合いの本質を文字という物質に置き換えて、固定化するという。そこに日本の万葉集の言霊において、 決定づけようとした意図はここにあります。だからそこに言霊の幸わう国としてあるのもここになります。国は現象の世界ですね。幸わう、未来に向かってということ。過去に向かってではない。そこに言霊のという条件がでてきます。これはどこまでも文字によって写し出されている世界。写し国としてあるのはまたここにあります。現象世界、別な言葉をとれば写し国です。ですから大国主神の一名の中にクニタマとかウッシクニとかいう表現もあるのもまたここにあります。

ですから破壊数というものは、どのような表現であるかと言うと、これは九星なら九星の面で考えてみると一番よくわかると思います。九星では暗険というのと、破れというものがあります。これは九星を多少ともかじった人なればわかりますが、そうすると、九星では5の数 に対して、黄色という文字を書いております。五黄ですね。そうすると、これはどのような意味があるかと言うと、黄色という古語は二十の火と書くんですね。これは何を意味しているかと言うと、太陽の黄道の条件において回転する、回転の条件を示しています。これは太陽と地球との関係における黄道の条件の在り方を示している言葉なんです。

そうすると、当然月の満ち欠けと同じように太陽光線における所の明暗と光の当たる面と、光が当たらない陰の面との明暗の条件が起こってくるわけです。ですから5の反対側。その意味では5の反対側の数が破壊数に該当する。陰なんです。陰は明が終わるんです。また暗が陽に変わるんです。すべて駄目というわけでなくて、そのような裏面に働く理をもっています。ですから植物の種も大地の中に蒔いて、その外側の硬い核が破れ腐って、初めて新しい生命が出るように、破壊数を如何に見るか。破壊数の中に如何に建設に繋がるものの因子があるかどうかを、読み取る術が数霊を身につけた度合いに掛かってきます。

先程7の数が破壊数の時には、2をやったら抜群に金運が付いたというのは、一つの智恵なんです。これは数霊を十二分に活用した方法論なんです。それは当然言えます。
東洋における時間の捉え方というのは、十干と十二支において、捉えています。俗にいう干支です。そうすると、この年における十二支は12回転をもって、一応天地人の12か月を3年一期として変わってきます。また、3 6年をもって天地人の条件が変わってきます。それと同じように十二支の置かれる場において、その反対側が破壊数になります。陰になるんですね。そのように受け取って戴くと、基本の面から見ると一 番理解しやすいと思います。

ですから陰ですから、絶対駄目だというわけではないですね。疲れた時には安めばいい。ですから破壊月には休憩しなさいと。あまり活動したら失敗しますよと、倒れますよというんですから、これは太陽との関係ですから、破壊数の時には無理をしなさんなよという事ですね。

そうすると、破壊数の時には無理しないで、陰というのは、陰の世界ですから、物を考えると。そのような条件ですね。中に精神が入る時期ですからね。そうすると、その時には物事の基礎を固める時期です。物事の今までの行き詰まり、欠陥を再認識し、 その中から何が悪かったか、何が良かったかそのような取捨選別し、この中の陰の中にどのようなプラスがあるかという事を再認識し、そのいい面の力を蓄える時期であると。 休息の時期であると言えます。だけれども、その中において再度及びが立って、陰の中に物が急に動いて、吉が来た場合には、それが即建設に繋がってきます。そのように物事をみなければいけない。

そうすると、必ず数霊を研究されますと、 必ずといっていいぼど、10人が10人破壊数に囚われて破壊数があるから嫌だと。 嫌だと言ったら、破壊数が追いかけてくるんですね。 そのような体験が必ずあります。囚われてくる。しかしこの考えはよく言われるんですが、数霊は破壊数がないといいんだがなあと、でも、それは私が作ったのではないですから。

そうすると、この事をよく考えますと、出くわすんです。破壊の哲学というものが。 どこにあるかと言うと、葉隠の武士道の中にどう説いているか。「武士道とは死の中に見つけたり」と。この死の中において、武士の本体を見ようとした条件。破壊がやってくるんだ、破壊がやってくるんだと言って自分の身辺を固めていった事は、逆に生きる事なんですね。生きる事なんですね。

そうすると、剣の道でも経営の道でも何時死んでもいいというこの心が出来た場合には、即それは建設の心なんです。私が数霊の原理に目覚め、それを発見し、体系づけたのもまたそこにあるんです。

研究が行き詰まって、もう一歩も進めなくなってきた 時に、どう私は感じたかと。この行き詰まりの段階において、どう対応したかと言うと、 もう自分の研究はこれをもって行き詰まりだと。押せども、突けどもどうしようもならない。食べるに金が無い。住むに家が無い所まで追い詰められた時にどうしたか。子供が学校に行くのに金が無い。入学金すらないと。家賃すら払えない条件において、どう私は長年の研究に対応したかと。

『私の数霊の研究が真理であるとするならば、活かされなければいけない。』

この自負心が行き詰まった壁の中から浮かび上がってきたわけです。真理ならば活かされなければならないと。この自負心。

『もしこれが真理で無かったならば、数霊の何十年という研究は、即崩壊のうきめを負ったと同時に私の人生は終わりである。自分だけではない自分の女房、子どもも全部共連れにして死を待つしかない。』

どうあるべきかと。この断崖に 立たされた時に開いたわけです。

『宜しい、この数霊をもって自殺してよろしいと。』

この断崖に立った時において、私に初めて霊感が付与されたわけです。そこにおいて初めて習わぬ経が読めだしたんですね。カールブッセの詩の中にあるように、山の頂きの次元に霊体が登ったわけですね。一挙にエレベーターがダーッと登ったわけです。それは命を投げ出した所において浮かんだんです。あの貝殻でも、中身を取ってくると浮かんでくるんです。それと同じように南瓜でもあのままでは沈むんですが、中をくり抜けばちゃんと浮かんだ船の形になるように、命を投げだした所なんです。善悪、理解、あらゆるものを投げ出した所において分かってきた。与えられてきた。水は流れ出したということです。それは破壊のどん底において目覚め、破壊のどん底において数霊の体系がなされたわけです。ですから私の講義、講演というものは、全部如何なる時 にも、原稿はないです。5時間でも6時間でも8時間でも滔々として時間が立てば立つほど音量が出てくるものなんです。最高は四百何十人を相手取って、風邪を引いて熱がありながら、滔々としてやったんですね。これは青森のキヨサキの農協会館でやりました。

その音量はどこから出てくるかと。これは知識では出ないんです。ですから常に私は何と言うか。「創造の目を開きなさい」と。「自分の言葉で語りなさい」と。自分の言葉で語るという事は、自分の心の発動なんです。自分の心の発動ということは、物と物との対応における掴み方。感じ方。我と汝の心との対応における感じ方。感受性の在り方。言葉にならない気の条件。よくありますね。人が来ると気を感じるとか。夜道を歩く、何かしら来るんではないかという、自分の心の幻影がありますね。そのように、言葉というものは起こってきます。

それは何かと言うと、自分が無になって細部に目がいっているということですね。 投げ捨てる。ですから私の数霊の体系というものは、今言った無から有を生み出してくるんです。これは今日一番初めに言った無即命。命即有であると。この大きな3つの観点の一体が、現在の数霊の体系を作ったたわけです。

これはその意味では、古代思想における大きな壁、文献の壁を打ち破って物心両方面を貫通する統一哲学、統一科学まで昇華しているわけです。その意味では物質科学の中にも切り込めますし、宗教の中にも、哲学の中にも文学の中にも切り込む事が出来るし、経済、政治の中にも切り込む事は可能なわけです。そこに数霊があるわけです。そうすると、みなさんが数霊を活用する場合は、どうすべきかという事も只単にいたずらに、破壊数がどうだとか、これをやるとブラスになるとか、これも確かに方法論ではありますけれども、まず水を飲んで、甘い水か辛い水かを体験されてそれから上手かったら皆さんどうぞこれをいいですよと言うのが、これが自然の発露なんです。

食べたものは、出るのが自然の原理です。皆さんが毎日栄養とろうとして食べたら パンクして死んじゃうというのと同じように、食べたものは出さなければいけいない。 勿体ないな。金を払って講義を聞いて、勿体ないから絶対出さないといのでは、絶対発展しない。これは実に不思議なものです。
ですから現在までの易者連中がどうして、発展しないかと。時間の中に閉鎖してくるかと言うと、勿体ない。これは~の秘密だと言って分からないものまで隠して、どんどんどん自分の陰の中に殻に閉じ込もって、出ないから、出さないから、どんどん時間が経つに従って、不明が不明を呼んで不明が無明の中に入って、現在の条件の中に一番低次元の中に入って、あいつは易者だとこのようになります。

これは本当は昔は運命、帝王の学とてしてあるものなんです。それが現在はどん底なんです。それはこの学ぶ人の方向性にあるわけです。その事は現在の職業でも同じなんです。現在の職業を卑しい物としておくか、最高に与えられた聖職としておくかは、 前向きの姿勢においてあります。
前向きにおいてあります。それはどこまでも知識の中においてあるのではないんです。
前向きという事は、今日から明日ですから。明日は知識はないですから、いろいろな文献が無いんです。いろいろな情報がないんですから。明日ですから。その明後日、1 か月、1年先というのは、なんなのか。全部創造の世界なんです。それを未来を知識に おいてやろうと思う所に問題があるんです。未来は創造の世界なんです。その創造の世界に皆さんの生命が今、小道に立とうとしています。

どうこの未来の創造の目を皆さんの手において、掴み、皆さんの足において歩むかは今までの過去に向かった知識ではないと。そうすると、どのようにして創造をするかと。それは漠字の世界の物の世界において、全部あとづけられているわけです。どのようにあるかと。

創造ですね。

創造は創は倉ですね。法則の右側の二本棒を加えています。そうすると、創造の倉とは何かということですね。言葉と文字は違いますね。創という言葉は、倉ばかりでないですね。『そうだそうだ』と会話の中でいいますね。同じような解釈なれば、『そうだ』 と言うところを『そうだ、そうだ』いいますね。やはり『そう』といいます。

もう一つは草なんですね。ですから物事の初めは創成期、草創期とかいいます。その時にはクサカンムリを書くからよくわかりますね。物事の初めなんだと。そうすると、 創造の創というものは、
。この倉の法則だと言えます。それはまた物事を計る条件ですね。未来の予測と。これと同じ条件の理がこの中にふくまれてあるんだということがいえます。

そうすると、あと「倉とはなんなのか」とか。「法則とはなんなのか」という問い が出てきます。これはこの次に分析にはいります。

次の造は造るですね。この三も『ゾウ』ですね。象も『ゾウ』です。またこれは造るでもありますね。これは道を告げるですね。これは聖書の方から見ると受胎告知という表現ですね。予め予告しているんだと。これは道はなんなのか。

そうすると、倉と道と法則との関係の中に創造とはなんぞやというその質を文字における物質化において、固定化しているんだと。我々の遠い先祖の人達が誰言うともな く創造の世界はこの文字において写し取っているし固定化していま す。この倉こそ、農耕時代から見ると、食の中には収穫の中に詰め込むと。それが言えます。

創造の中にはあらゆる要因が詰まっているところの物を自然の法則に照らし合わせて、このようになります。それはまた何かと言うと、創意という事は、傷を負うとい うことですね。道を告げる事は創造の世界では傷を負いますよと言っています。よく宗教の世界には、霊能が与えられる時には、あらゆるもの、特に物質の方を無に帰されるよと、よくいわれます。これはいろいろな体験者が大半がそのような条件になっています。
名誉も物質の金銭も、財宝も皆、洗いざらい無にされる。そして霊能を与えられると。 これが今までの霊能者の在り来たりの歴史なんです。私自身もその意味において、苦難の傷を背負ったわけです。それは新しい生命は傷なしにして新しい生命は出ないんですね。

あの冬の枯れ木の死んだような、枯れ木の中でも春が来て、新しい芽を吹きだす。時にはあの固い木の幹から、皮を破って傷を付けて新しい芽が出るし、草花においても、 大地の氷ついたあつい大地の壁を破って傷を付けて、そこから新しい芽を、新しい世界の中に、空間の中に創造の芽を出すわけなんです。また人間の生命が生まれる場合にも、あの母体を離れる時のあの母親の陣痛の苦しみも、やはり創造の、新しい生命の創造における傷なんです。

そうすると、あらゆる創造というものは、傷なくしてありえないんです。それが言えます。現在は楽をして儲けたい。楽をして名前を出したい。楽をして大きくなりたいというのが、そこに戦後における教育の心の崩壊した一旦の徒花が咲いているんです。

そうすると、これからの数霊の勉強において、何を手段として見ようとするかといと、一番初め、今日の初めに説明しましたように、数霊は命と言葉と時間との三者合体において、物事の吉凶、善悪論を解釈し、前向きの未来に向かってそれを打ち出そうとする、姿勢をもっているんだということを、最初に胸の中に刻んでおいて戴きたいと思います。

只単なる知識ではありません。宗教ではありません。哲学ではありません。 科学ではないんだと。あらゆる物を否定し、あらゆる物を総合的に包含しているんです。新しい創造の芽がここにあるという事を第1回の講義において特に皆さんが胸の中にたたんで、大事に受けとって戴きたいと思います。




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