僕の頭の中

遅れながら、参院選の記事でも描こうかと思う


参院選の結果を分析するにあたり、日経新聞の参院選2019 データ分析という記事が参考になるのでリンクを参照されたい(PC推奨)

総評としては、

今回の選挙では改選枠124を争ったわけだが、与党71:野党など53議席という結果に終わった。

自公優勢は変わらず、ただし改憲の争点であった2/3議席は確保するに至らなかった。


野党は野党共闘ということで一人区を増やしたりすることで票の分散を図ったが、その結果は大きく現れた地区、そうでない地区とまちまちだった。

これは個人的な意見だが、野党共闘でいくら議席数が増えようとあんまり意味がないと思う

現自公政権を脅かしうる「ワンオルタナティブ」が生まれないことには日本の政治は変わりようがない。特に、今回の争点ともなった福祉政策をめぐる大きな方向転換は見込めない。


もう一つ大きく報道されたのは、歴代最低水準の投票率。

1995年に次ぐ低い投票率になった。

このような低い投票率に関する研究はたくさんあるが、個人的に説得的だと思うのは、個人の合理的選択理論に基づいた説明だと思う。

政治的無関心はラスウェルの三類型がとてもわかりやすい、政治に関する知識や関心が低下した無政治的態度、政治そのものを忌避したり批判したりする反政治的態度、政治への幻滅により関心を失った脱政治的態度。

これは感覚的にだが、今回のような参院選の無投票者は、半数の無政治的態度を持った人間と少数の脱政治的態度をとる人間が当てはまっているように感じる。

後者は置いておいて前者については阪大の吉川さんが指摘するように、やはり「大卒」階級と「非大卒」階級との構造的な情報格差、経済格差、教育格差が起因しているように思われる。

「大卒」階級の人間は、「なぜこんなに投票に行かないの?」「投票にいかない奴はクソ」みたいに思うかもしれない。実際そういう人を見た

俺からすれば、彼らはもっと自覚的になるべきだ、自分がいかにハイソサエティの中で止まり安穏と暮らしているかを。もっと自分を相対化したほうがいい、社会の分断そのものの全体が見えてないぞと思う。

だって社会階級の分断はどんどん構造化、早期化して「目に見えなく」なってきているのだから。

たまたまハイソ家庭に生まれただけであることを自覚してない人間は、「投票にいけ」とただただ叫ぶ前に、Lightly Educated Guys (LEGs)と呼ばれるいわゆる無政治的態度を取らざるを得ない「非大卒」の人間との格差を生んでいる制度・構造自体に問題関心を置くべきだと思う。

「大卒」「非大卒」の「見えない化」はとても深刻で、この「見える化」、ひいてはコーポレートが生まれない限り再分配政策への忌避感(痛税感)がなくならず、結果的に左派政党=野党は育ちづらいのではないかなどと考えている

閑話休題。

個人的には、ラスウェルの三類型にメディア論の中井さんが言った、「妥協的遊離」の概念を付け加えたい。

これは、政治的態度がただの現状の追認に止まり批判的精神を失っている状態のこと

この病理はさっきの話でいうなら「大卒」階級の人間にもあてはまりうる。さらには、政治的関心がある層にもはまりうる。

「妥協的遊離」を持って、批判的精神がなく思考停止で自公に投票する人間もどうにかしなければ「ワンオルタナティブ」としての野党は現れるのが難しい。

自公の勝利も演説で「安定」という言葉を繰り返した現政権の作戦勝ちかなともおもう、「妥協的遊離」の状態に陥っている層を取り込むにはもってこいのことばだから。

社会は果たして「安定」しているだろうか、否。たぶん「安定」してない。もっとドラスティックに変化しているように思う。じゃあ、政治もドラスティックに動いてないとジリ貧なのではないか?変化のない政治はまずいって

つまりこういった個々人が自分の行動を「合理的」に選択した結果、投票率が低くなったのかなと思っている


ただの「低い投票率」という報道も、分析して、カテゴライズして、根幹の問題を発見しないとなんの解決にもならない。政治参加をする「大卒」階級の人間であるからこそ妥協的であってはいけないと感じている。


一つよかったのは女性の投票者比率が上がったね、少しは健全になってきたかもしれない。


個人的にれいわ新撰組とかいうセンスのない奴らが2議席もとったのがやばい。

れいわとか天皇死んだら名前変えるってこと?新撰組とかゴリゴリの体制派の名前じゃん。

バカ丸出しかって。マニフェストもいわゆる極左の低負担、高福祉、最低賃金大幅値上げ、徳政令とか。プロコンを無視した典型的ポピュリズム的政策。

左派ポピュリズムの波が日本にもきているのだろうか

れいわ政党党首もそいつに乗っかって議席についた2人も政治的センスを疑う


それら重度障害者のための参議院の設備を改修する費用が問題にもなっている。これは障害者問題を扱うときに俺は毎回持つ視点だけど、

障害を「社会モデル」で捉えるか「個人モデル」で捉えるかという視点の相違に違いない。

僕は「社会モデル」を支持しているが、要は障害とはなんなのか?ということ

障害とはなんなのか?

社会に存在する人間が全員歩けなかったら、歩けないのは障害じゃないだろう。それは人間が空を飛べないのは障害と見なされないのと変わらない。

社会にエレベーターがないから階段を登れない足を障害と見なされるのであって全建設物にエレベーターがあればそれはもはや障害ではない

障害の責任を個人の能力ではなく、社会の仕組みに還元する考え方をすると、その場合参議院の改修費用は社会が賄うのは当然という見方を俺は支持している



もうちょっと政治を面白くする最強の政治家が出てこないかなー、と期待するばかりだ

#参院選2019








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