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日々是レファレンス 「八百屋批評」という言葉

「八百屋批評」という言葉がある。おそらくは筒井康隆の造語で、初出は『文学部唯野教授のサブ・テキスト』だ。

 筒井康隆の小説『文学部唯野教授』は、テリー・イーグルトンの『文学とは何か』を下敷きに章立てされており、さまざまな文学理論がそのタイトルとなっている。各章の前半は、大学内部のいざこざに主人公が巻き込まれていく様子がスラップスティックコメディのように描かれ、後半はタイトルについての講義というスタイルになっている。
 その第一講:印象批評の講義部分で「規範批評」という言葉が登場する。印象批評は、唯野教授によって「こんな批評の仕方は駄目だ」ということでボロクソに扱われるわけだが、規範批評についてもその印象批評と同じ穴の貉としてやはりボロクソに扱われる。

 つまり、その小説を、あり得たかもしれないもうひとつの理想的な小説、そのひとのでっちあげた架空のモデルと比べて、ここがよくない、あそこがよくないと無限にけちをつけるやりかた。これはいくらでもできるんだよね。早い話が「もっとうまく書けるだろうに」と書きたいんだけど、それじゃまずいから、その小説を、自分の理想とするモデルのコピーとしては不完全であると言ってけちをつける。わしの考えの方がよいと言っとるわけで、いったん書かれた小説には確定性が生じてるんだけど、そんなこと無視してるの。自分が偉いと思い込まなきゃできないという意味で、こうした規範批評も、印象批評と同じ穴の貉だからね。

筒井康隆『文学部唯野教授』第一講 印象批評 より

 先述のとおり『文学部唯野教授』本編では「八百屋批評」という言葉は出てこず、スピンオフ企画の『文学部唯野教授のサブ・テキスト』の中で、規範批評の解説として登場する。

 自分たちのしてほしかったこと、自分たちがやろうとして怖くてできないことなどを求めるのも規範批評です。こういうの、現代では、近所の八百屋の店頭に立って、「肉がない」とか「売りあげベスト・テンの表示がない」とかいって怒るのに似てるから、おれは「八百屋批評」って呼んでるんだけど。

筒井康隆『文学部唯野教授のサブ・テキスト』唯野教授への100の質問 より

「八百屋批評」を突き詰めていくと、最終的には「じゃお前が書いてみろよ」「じゃお前が撮ってみろよ」といった、際限のない不毛な議論に陥るのではないかと思うのだ。

 先だって、映画『PERFECT DAYS』の感想を書いた。その前にもその後にもこの作品の感想や論評を少なくない数、目にした。大多数が好意的なものだが、中には否定的な意見もあって(そのこと自体は当然なのだが)その内容がこの「八百屋批評」であることが多いような気がするのだ(そしてそのような論評がたくさんの「いいね」や♡を集めていることも意外だ)。主人公平山について、公共トイレの清掃員の待遇や実際のトイレの汚さを無視して綺麗事しか描いていないとか、ひどいものになるとこんな奴いるわけないとか、要は、この作品における(社会問題絡みの)リアリティの欠如を指摘しているのかと思う。そういう感想を書く人の問題意識とか、憤りだとかを否定するつもりはない。そしてその価値観でもって「この映画が気にくわない」とか「この映画が嫌いだ」とか言うのも(SNSなどに投稿するのも)当人の自由だ。でも、その単一の価値観でもって「この映画は駄目だ」と評価するのはいかがなものかと思うのだ。
 すべての映画にリアリティがなければならないというルールはない。もちろん綺麗事を描いてもよいのだ。この社会問題的評価軸でのみこの作品を評価し、これらの問題を包括してゆくともはや社会派ドキュメンタリー的な、元の作品とはまったく違うものになってしまうのではないか。「元の」『PERFECT DAYS』の方がよかったという意見が出てくることもあり得るのではないか。単一の価値観や評価軸でもって、ある作品(映画にとどまらない)の好き嫌いを語ることと、良い悪いの評価を論じることの切り分けができていない人が、意外と多いのだなと今更ながらに思う。八百屋批評=規範批評は、唯野先生が小説の中でおっしゃっているとおりいくらでもできてしまうものなので、八百屋批評の陥穽におちいることに注意したいと自戒するものである。

 じゃ一体どんな評価軸があるというんだい、とおっしゃる方は、『文学部唯野教授』を読んでみるのも一興ではないか、と。

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