見出し画像

勝手にしやがれ

この9月にゴダールが死んだと聞いたとき、「あっゴダールってまだ生きてたんだ」くらいにしか思わなかった。しかしそれが「安楽死」によるものと知ったときには別の感慨が湧いた。
自殺の一形態には違いないのだろうが、その「安楽性」の担保のためにどうしても他者(とくに医師などの医療従事者)の幇助を必要とし、そのことが各国の法制度上のさまざまな議論を巻き起こしている。しかし僕はそういった議論にはあまり興味がなく、どちらかといえば、死ぬと決めた心境やそこに至るまでの経緯、思考の移り変わりのことを強く考えてしまう。

安楽死のことで、どうしても忘れられないテレビ番組がある。2019年6月に放送されたNHKのドキュメンタリー「彼女は安楽死を選んだ」(同年年末にも再放送)。ある進行性の神経難病の40代女性が安楽死を決意し、スイスに渡って死ぬまでの記録だ。
印象に残る会話がある。スイスに渡航し、安楽死を援助する団体の医師との面談で、医師はこう言った。「日本で安楽死が認められていれば、彼女はこんなに早く死を選ばなくてもよかったのではないか」スイスへの渡航は、病人にとっては相当の体力を必要とし、彼女の場合病状が進行してしまえば渡航が不可能となる(スイスへの渡航時点で、かろうじて一定時間歩ける程度だったように思う)。そうなると彼女は彼女の希望通りに自らの命を終えることができない。そしてそのことは彼女の死期とその判断を早めているのではないか、と。
スイスに渡って意思確認やメディカルチェックを経て彼女が自分で自分のボタンを押下して命を終えるその瞬間も克明に映像は記録している。僕の目は画面に釘付けになり、滂沱のごとく涙が流れた。悲しいのではなく、その映像のもつ迫力に圧倒され、涙が止まらなかった。番組が終わったあとも衝撃でしばらく立てなかった。再放送を観たときも同様で、やはり涙が止まらなかった。自分の命の終わりを決めることには妙な迫力と妙な穏やかさがある。人生のうちに行うさまざまな自己決定の中で最も大きく重いものだからだろうか(その決定をしないまま一生を終える人の方が多い(そしてその方が幸せだと僕は思う))。
このドキュメンタリーの良かったところは、自死を選んだ彼女だけではなく、同様の神経難病に侵されつつも生きることを選ぶ人も登場することだ。進行性の神経難病では筋力が衰え自発呼吸が困難になる状況がやがて訪れる。それはもちろん死を意味することになるが、そうなる前に気管切開を行い人工呼吸器を装着するか、自然な死を選ぶかの選択を迫られる。気管切開を行うと発声ができなくなりQOLは大幅に下がる。この選択は大きな分かれ目なのだが、ドキュメンタリーに登場する患者は逡巡の上、人工呼吸器を装着する。ドキュメンタリーの最後、車内から見た桜に涙する。誰だって死ぬのはこわい。僕はこの涙と春先の桜に救われた思いだ。

報道によれば、ゴダールはとくに病に侵されていたというわけではなく「単に疲れ切っていた」のだそうだ。疲れたからやめたというのはいかにもゴダールらしい気もするが、ここ最近で一番僕の気持ちをざわつかせた報道であることには違いない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?