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かっこいい女性が好き、じゃダメですか。

雨は好きじゃない。

慌ただしい朝に10分かけて巻いた前髪は、家を出た瞬間なかったものになる。お気に入りのジーパンは濃く重くなり、こちらまでブルーな気持ちになる。2024年はもう半分終わるというのに、遅すぎる梅雨入り。低気圧による偏頭痛を理由に今日はベッドから動かなかった。普段「何かしなきゃ」と生き急いでいる割には、丸一日何もしなかった。だからせめて今日の私には、未来にお気持ち表明を残し眠ってもらう。
誰かのためには書かない。私が私のためだけに書く。人に迎合せず、自分が思っていることをそのまま言葉にする。もう嘘はつかない。

借りたままのビニール傘を奥から引っ張り出す。





「私」の「恋愛」感情と「性的」感情

セクシュアリティの話をする。
私は女性だ。戸籍上でも、自分が思っている性別も女性だ。
私は男性にも女性にも恋愛感情を抱く。と言っていいのか分からないが…(後述する)今までどちらの性別の方(戸籍上)ともお付き合いをしたことがある。だけど私は、男性と手を繋ぐことができない。性的な魅力を感じるのは、(生物学上)女性だけだ。
これを無理矢理カタカナで表すと、「私はシスジェンダーで、ホモセクシュアルで、バイロマンティックです。」ということになるらしい。まあ今更何らかの枠で自分を囲う必要も…と思うし、突き詰めていけば、恐らく私はこれに該当しないのだろうなとも思うが、自認した当初はこの枠に救われたので書いておく。




自認への道のり

誰しもが通るであろう、「このクラスでだれが好き〜?私、〇〇くん!」を違和感なく、幾度となく潜り抜けてきた。幼い頃に自認して生きてこられた方も多いと思うが、私が自分のセクシュアリティを確立したのは大学に入学してからだった。高校生まで、男性のことを好きになってお付き合いをした。毎日連絡を取った。まごう事なく、私は彼らのことを恋愛の目で見ていた、好きだった。
でも、毎回半年くらいでお別れしていた。決まって私の方から別れを告げていたので、長い付き合いの友人からも呆れられていたと思う。私もそんな自分が嫌で嫌で、気持ち悪かった。あんなに好きだったのに、コロッと「なんか違う」と思ってしまう。
今やっと、分かる気がする。彼らとお別れしたのは、決まって初めて手を繋いだ後だった。大きくて温かい、優しい手なのは分かる。私への愛情もすごく伝わる。でも握っている時の、何か収まらないジメジメした違和感がずっと拭えなかった。(少し逸れるが、中学生の時に男性教師から好意を向けられたことや電車内で男性の露出狂に出会ってしまったことがトラウマとしてあり、これも少なからず影響してしまっているのではと考えている。分からないけど。)
年齢を重ねるごとにその違和感は私の中で大きく膨れ上がって、どうしようもなかった。最初はその違和感の正体が分からなかったので、「ニンゲンの肌身が嫌いなんだ」と思い込んでいた。生物としての人間を直に感じてしまう、その気持ち悪さに原因を求めていた。
ただ、女友達とハグや手を繋ぐことはあったし、仲の良い男友達とハイタッチをしても何かを感じたことはない。のちに、「自分のことを好きでいてくれる男性から向けられる『手を繋ぎたい』『ハグしたい』という気持ちに私は応えることができない」という思いを確固たるものにした。当時これを表す言葉として流行っていた「蛙化」という言葉に乗せて。非常に浅はかであった。
彼氏とそういう雰囲気になった瞬間、帰りたくなってしまう。というか「ごめんね、この後塾で。」と言って帰ったこともある。こういうのを気持ち悪いと思わない人間であったなら、良い雰囲気と形容できたのに。申し訳ない気持ちが募り、いつも私から逃げ出してしまっていた。



大学で出来た恋人

私は田舎を出て都内の大学へと進学した。18歳、初めての居酒屋アルバイト。そこに男性なのか女性なのか一見分からないイケメンがいた。
更衣室が同じだったため、私からすれば彼女は「かっこいい女性」だった。ボーイッシュな女性。自分でもびっくりするくらいに自然に、恋に落ちた。まさか自分が女性を!?しかも年上のことを好きになったのも初めて、でまあ色々な自分の過去を塗り替えられたわけです。もう毎日ドクドクした。「え?私女性が好きなの?え?」と。この時私はまだ、「男性が好きだけど、男性とは手を繋げない」状態だったので、「まさか…」だった。恋に落ちるのに性別も年齢も関係ないですね。
んで堪らず私から告白した時、彼女から「実は性同一性障害で、普段は僕呼びだし…良いんですか?」と言われた。彼はトランスジェンダーだった。
彼だけじゃなく、東京には様々な性自認の人がいる。バイト先だけで、ゲイの先輩・バイの同期もいて、本当に学ぶことが多かった。上京するまで、「女性が女性に恋をする」という事象の存在自体知らなかった。「男性と女性が親密になることを恋だと言う」しか頭になかった。価値観が広がるとはまさにこの事。今までもきっと「この女の人、かっこいい!素敵!」と思ったことは沢山あっただろうが、無意識裡に自制を働かせていたのだ。このセクマイ仲間の存在が、私にとってはめちゃめちゃ大きかった。心の赴くままに恋をして良いんだと思わされた。だから自然と、彼とお付き合いを始めた。
彼との話は思い出が詰まりすぎていて、というかわざわざ文章にしなくても私は全て覚えているので端折る。彼のおかげで、私は私を好きになれた。「普通」に頑張って馴染む必要はないんだ、誰のことをどう好きになっても良いんだ。もうお別れしてしまったけど、彼がずっと幸せでいられる世界でありますようにと願っている。
そこから「(生物学的に見て)女性に恋をした」と認識することが多くなった。



田舎の実家

私の実家は超ど田舎にあり、周りは全員顔見知りの中で育ってきた。私が〇〇大学に進学した、〇〇ちゃんが結婚するらしい、〇〇さんのところの息子は…とすぐに噂が回る。伝統的な(今でいえば古臭い)価値観が一般的。勿論セクマイの人間などいない(ように見える)。実家に帰るたび「あんたはね、(地元)出身の、背の高い男の人と結婚しなさい、絶対に(地元)出身の人じゃないとダメよ」と言われる。でも仕方がない。彼女らはこの歳になるまでこの地を離れたことがないのだから。彼女らの話を遠のく霞んだ頭で聞き、「ああ、ここを離れてよかったね」と神の声で自分に囁く。
宝塚歌劇が好きだ。大学入学後初めて触れた、あの非現実的な煌びやかな世界には幾度となく救われた。「私、宝塚ハマってるんだよね」と日常会話の延長で祖母に言うと「あんた…女の人なんか好きにならんでよ」と釘を刺される。そういう目で宝塚を見ていた訳じゃないのに、そういうことになる。のしかかる、大きくて重い否定。彼女の苦笑いに乗っかって「ちゃんと背の高い人と結婚するから、ばあちゃん」としか返せなかった。



私は「女性が好き」と言って良いのでしょうか

ここまで書いているが、実は「女の子らしい(と世間一般で言われる)女の子、フェムさん」を恋愛的に好きになったことがない。好きになる想像すら出来ない。いつも「いいな」と思うのはボーイッシュな見た目をしている人だ。Xで「世間でレズ狂わせって言われてる人間が軒並み私のタイプじゃない、結局こういうタイプ好きな人間ってノンケでしょ(多分こういうポスト…ちゃんとは覚えていない)」とレズビアンの方が書かれていた。そこに貼られていた画像は私の好きな芸能人ばかりだ。
そのレズビアンの方が仰っていたことも、その方の一意見として受け止めれば良いのだろうが、他のレズビアンの方々が大多数賛成されていた。凹んだ。私の好きな人はどこにいるのか、ここに来て自認がふわふわと宙ブラりんになり、分からなくなった。
ただでさえマイノリティ側に属してしまう彼女らの、言ってしまえば「聖域」を踏み躙られたくないという気持ちは分かる。彼女らは「レズビアンとはこういうものだ」と仲間を固めて肩を寄せ合うしか自分のアイデンティティーを保つ手段がないと考え込んでいるのだ。これは彼女らの問題ではなく、セクシュアルマイノリティを認めてこなかった社会の負の遺産である。しかし、それはまた、「普通」という言葉が彼女たちセクシュアルマイノリティを退けたのと同じように、よりマイノリティの人間を除外することに繋がるかもしれない。セクシュアリティの枠組みは「自分は一人じゃない」という安心感を与えてくれると同時に、誰かの可能性を奪うものでもあるのか?
自分は、男性と性的行為ができないから仕方なく女性が好きだと思っているのか?大好きな人がFtMだったのも?性的に好きになれない男性の「代わり」なのか?それは違う。あくまで私は、性的行為をしたいという理由では誰かと付き合わない。違うはずなのに、世間の声の中で自分の声がかき消されていく。自分のことなのに、自分が分からない。「女性が好きだ」を自分の中から消してしまおうか。考えすぎなのか?何か罪を犯しているような、男性女性双方、というか人間全体に悪いことをしている気分になる。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

結局、「代わり」なんかじゃなくて、その人がその人だから好きになる。その人が自分の好きな性格だから、見た目だから、と同列で「その性別だから」がある。それらがたまたま掛け合わさって、好きになる。周りからどう思われようと、そう考えて自分の中で結論づけないと、私は私をこの手で滅ぼしてしまう。
最近めっきり男性に恋愛感情を抱くこともなくなり、素敵だなと思うのは「かっこいい女性」ばかりである。ただ、ボーイッシュな見た目をしているからと言って全員好きになるわけではない。「かっこいい」も「見た目が」から「考え方や価値観が」にシフトしてきた。
セクシュアリティの大枠が変化することは滅多にないだろう。でも細部は、年齢を重ねるごとに割と簡単に移り変わるものなのかもしれない。その時々の自分の感情や「世間一般」と謳われることに縛られ身を滅ぼすよりも、「私は『かっこいい女性』が好きなんだ」と自分の中で軸を持つことの方がよっぽど幸せになれる。
私は、私のために生きていて、私の人生の主人公で、自由に幸せになっていい。好きな人を好きでいていい。結果として、好きな自分を形作っていい。この世に生きる人全員にも、同じ権利が与えられている。自分を認めてほしいと思うなら、周りのことも受け入れられるようにならなくてはならない。
セクシュアリティの枠なんて無くなってしまえ。その存在こそが「特別」、言い換えれば「異端」を生み出すのだ。無い状態が「普通」でなくてはならない。それが達成された時、ようやく本当の権利と自由を手にすることが出来る。

私は、私のためだけにこれを書く。上手く整理できていないところもあると思うけど、その複雑に揺れ動く気持ちも含めて私なのだ。

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