「写真」は撮影者の存在を批准する

写真コンテスト「Sony World Photography Awards 2023」において、AIの生成した画像(タイトルは『偽物の記憶』)がクリエイティブ部門の最優秀賞を受賞した。

これについて触れたYoutubeの動画「AI画像が写真の賞に選ばれる今こそ考え直したい。「写真って、なんだっけ??」」を見て考えたことがあったのでメモしておく。

なお、「何が写真で何が写真でないか」といった議論に私は興味がない。いろいろな写真があるなかで、自分がおもしろいと感じる写真はどのようなものなのか、に関心があるだけである。

https://youtu.be/Nw38t_g6nGo


『偽物の記憶』がAIの作成した画像だとしても、私は想像する事ができます。このような母娘がかつてどこかに存在したであろうと。(存在しなかったと断言する方が難しいと私は思います。)

フーコーのまなざしは,比喩的にいえば,キリスト教を生まなかった無数のイエスに注がれている。過去や現在によってはもちろん,未来からも救済されなかった独異なる生に,である。〔…〕「哲学」を生まなかったがゆえに単に汚名のなかで死んでいったソクラテス,「俳句」という制度を残さなかったがゆえにまったく理解不能な旅の生を送った芭蕉,…無数のそういう人々がかつて存在した。

永井均『魂に対する態度』

ローザ・パークスは現在では英雄である。しかし彼女の前には、無数の「一人」がいた。彼らは無念のうちに死んだ。あるいは生き残っても、誰にも知られず、臍をかみながら生きている。

常野雄次郎
https://megalodon.jp/2009-0213-1838-40/d.hatena.ne.jp/toled/20090107

そのような意味で、『偽物の記憶』はこの母娘の存在証明書であり、母娘の「存在を批准」する「写真」であると言えるのかもしれません。

「写真」はすべて存在証明書である。「写真」の本質は、そこに写っているものの存在を批准する点にある「写真」のノエマは単純であり、平凡である。深遠なところは少しもない。《それはかつてあった》ということだけである。

花輪光訳、ロラン ・バルト『明るい部屋』

しかし、はっきりと言えることは、この母娘が存在したその時その場所に、『偽物の記憶』の作者は存在していなかったということです。

「写真」は被写体の存在を批准するだけではありません。

「写真」は撮影者の存在をも批准します。(バルトはそうは書いていませんが…)

アマチュアカメラマンの撮影したごく平凡な家族「写真」が、常に家族を見つめていた、そこに写っていない撮影者の存在を確かに示していることを想起してください。あるいは、自己表現として撮られたわけではないアジェやヴィヴィアン・マイヤーの「写真」が、(被写体と同じかそれ以上に)撮影者についての私たちの語りを誘発してしまうことを。

「写真」の持つこの性質(撮影者の存在証明書であり、撮影者の存在を批准する点)は、私にとって、ますます重要なことのように思われてきます。

「写真」の実践の場においては、逆にアマチュアこそ専門家の極致である。というのも、アマチュアのほうが「写真」のノエマの近くにいるからである。

花輪光訳、ロラン ・バルト『明るい部屋』