「写真」は撮影者の存在を批准する
写真コンテスト「Sony World Photography Awards 2023」において、AIの生成した画像(タイトルは『偽物の記憶』)がクリエイティブ部門の最優秀賞を受賞した。
これについて触れたYoutubeの動画「AI画像が写真の賞に選ばれる今こそ考え直したい。「写真って、なんだっけ??」」を見て考えたことがあったのでメモしておく。
なお、「何が写真で何が写真でないか」といった議論に私は興味がない。いろいろな写真があるなかで、自分がおもしろいと感じる写真はどのようなものなのか、に関心があるだけである。
『偽物の記憶』がAIの作成した画像だとしても、私は想像する事ができます。このような母娘がかつてどこかに存在したであろうと。(存在しなかったと断言する方が難しいと私は思います。)
永井均『魂に対する態度』
常野雄次郎
https://megalodon.jp/2009-0213-1838-40/d.hatena.ne.jp/toled/20090107
そのような意味で、『偽物の記憶』はこの母娘の存在証明書であり、母娘の「存在を批准」する「写真」であると言えるのかもしれません。
花輪光訳、ロラン ・バルト『明るい部屋』
しかし、はっきりと言えることは、この母娘が存在したその時その場所に、『偽物の記憶』の作者は存在していなかったということです。
「写真」は被写体の存在を批准するだけではありません。
「写真」は撮影者の存在をも批准します。(バルトはそうは書いていませんが…)
アマチュアカメラマンの撮影したごく平凡な家族「写真」が、常に家族を見つめていた、そこに写っていない撮影者の存在を確かに示していることを想起してください。あるいは、自己表現として撮られたわけではないアジェやヴィヴィアン・マイヤーの「写真」が、(被写体と同じかそれ以上に)撮影者についての私たちの語りを誘発してしまうことを。
「写真」の持つこの性質(撮影者の存在証明書であり、撮影者の存在を批准する点)は、私にとって、ますます重要なことのように思われてきます。
花輪光訳、ロラン ・バルト『明るい部屋』