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「凡凡」15.もう生まれたくない

 38歳、独身、独居、猫二匹。
 「もう生まれたくない、です」私は見ず知らずの女の人に突然そう告げた。「もう生まれたくない」と、女の人は「もう生まれたくないですね?」と聞いてきた「はい」と言った(念押し)。
 近所の書店はもう書店じゃない、長嶋有の新刊を置いていないのだ。一角にレトルトカレーを本のように並べて売っているコーナーがあるのに、長嶋有の新刊がない、一角にファンシー雑貨コーナーがあるのに長嶋有の新刊がない、なんてことだ。長嶋有は私にとってカレー以上にカレーだし、ファンシーだ、長嶋有の新刊がないなんて、もうそんなのは書店じゃない、もうあれを書店と呼ばない、もうカレー屋と呼ぶ。
 本をよく買うのですぐにポイント10倍クーポンが溜まる、そうすると次もそのポイント10倍に踊らされて便利でスマートなAmazonではなく書店に出向きヘラヘラ10倍クーポンを差し出す、そして再びポイント10倍クーポンをゲットしてヘラヘラする。書店に行く、10倍差し出す、10倍ゲットする、ヘラヘラする、書店行く、10倍差し出す、10倍ゲットする、ヘラヘラする、無限ループ。近所の書店に取り置きの電話をした、だってお財布の中にはポイント10倍クーポンがあるのだもの。書店で直接予約をする時は著者名とタイトルを書かされる、しかし電話だといきなりタイトルを聞かれる、なので私は電話で見ず知らずの女の人に言ったのだ。
 「もう生まれたくない」
 長嶋有の新刊「もう生まれたくない」というタイトルを言っただけなのに、私は見知らぬ女の人に「もう生まれたくない宣言」をしたような気まずい感じになってしまった。気まずい感じを払拭するべく今月発売の若ちゃんのエッセイも予約してしまおうと思いつき「あともう一冊予約したいんですが」と前置きして「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」です、と伝えた、これでさっきの「もう生まれたくない宣言」はかなり薄まったような気がした。電話口で対応の女の人が繰り返す「もう生まれたくない、と、表参道のセレブ犬、と、カバニャ要塞の野良犬、以上の三冊でよろしいですか?」「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬、までがタイトルなんです」と再び電話で本のタイトルを伝える困難。対応の女性はきっとこの後、バイト仲間や先輩社員に言うんだろう「さっき、電話対応したらヤバい奴で、いきなり“もう生まれたくない”とか言ってきて、“表参道のセレブ犬”と“カバーニャ要塞の野良犬”とかいう本二冊予約してきて、セレブ犬に興味があるのか野良犬に興味があるのかマジわけわからなくないですか?とにかく犬好きのヤバい奴ですよ、で“もう生まれたくない”んですよ、マジヤバくないですか?」そんな会話が行われる、それでも私はポイント10倍が欲しいのか、欲しいよ、情けない。そんでそのうち「ご予約の本が入荷しました」って電話がかかってくる、そうしたらもうカレー屋は「“もう生まれたくない”に誰が電話する?」ともめるんだ「いやですよ私、店長が電話してくださいよ」とか言われて誰も私に入荷の電話をしたがらず渋々店長が電話してきたりするんだ、きっと。そしたら今度は「“もう生まれたくない”が来るよ」と囁かれ「どんな奴なんですかね」と囁かれ、私が本を取りに行くと「“もう生まれたくない”が来ましたよ」とざわつかれるんだ。
 その時のことを想定して今私は震えている、そもそも「本を予約したイニキです」と名乗るだけで予約した本を出してくれるのだろうか、そこでタイトルを聞かれやしないだろうか「タイトルは?」と聞かれたら私はついに対人で本格的に「もう生まれたくない宣言」をすることになるのだ。「もう生まれたくない」の正確な言い方はどんなものだろうか、やはり目を虚ろにつぶやくように「もう生まれたくない」が定番なのだろうか、せめて滅茶苦茶明るくギャグ漫画のように「もう生まれたくない!」と言ってみようかアルカイックスマイルで、どのような言い方であっても、言ったら言ったで「“もう生まれたくない”って言ったよ!」とカレー屋の店員は事務的に仕事をしている感じを装いながら内心で思うのだろう。
 長嶋有の「僕は落ち着きがない」のビヨーンビヨビヨBe youngのエピソードが物凄く好きだ、美術部の男子高校生が描いている油絵のタイトルが「ビヨーンビヨビヨBe young」コンクールに入賞すると授賞式でウグイス嬢のような司会の女性がタイトルを読み上げる時にいちばん変なタイトルをつけている。そんな長嶋有のことだもの、こうやって本を手にする前から「もう生まれたくない」をどう言おうかと遊ばせてくれているのだ、絶対にそうだ。便利なネット社会の中で電話予約でポイント10倍が欲しい為に「もう生まれたくない」を欲しいと口で伝える人達を想定して面白がっているに違いない。
 「もう生まれたくない」もう楽しみ「もう生まれたくない」を言うのも楽しみになってきた、アルカイックスマイル。

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