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アラフィフサッカーヲタノザレゴト 1

はじめに
今回は私のもう一つの軸であるサッカー、とりわけ欧州フットボールについて。私は基本的にスペインのFCバルセロナ、イングランドのトッテナム・ホットスパー、そして地元の北海道コンサドーレ札幌を応援しています。今回はその中でもFCバルセロナと私という大枠で話をすすめようと思う。

30年以上前の日本におけるサッカー事情
前提条件として当時の日本においてメディアでどうサッカーが取り扱われていたかを周知しておこう。TVでサッカーが観られるのは年に数回、ごく稀に放送される日本リーグの試合、天皇杯(準決勝以降の計3試合)、高校サッカー選手権、インターハイ決勝、キリン杯やゼロックス杯などのエキシビマッチ、4年に一度のW杯、年一回のトヨタ杯。スポーツ新聞では僅かな紙面しか割かれず、雑誌もサッカーマガジンとサッカーダイジェストの2誌が月刊で発行されていた程度であった。貧乏育ちの私にはサッカー誌を定期的に買う余裕などもちろんなく(というよりサッカーに関しては活字媒体で情報を集めるという概念自体が無かったという方が正しい)、海外のサッカーチームの事などほぼ知らないし知らなくてもなんの不自由もなかった。

ミカエル・ラウドルップという男
年一回のトヨタ杯は必ず観るという習慣がついていた1985年の12月のことだ。その年のトヨタ杯はユベントスvsアルヘンティノス・ジュニアーズ。欧州チャンピオンのユベントスには当時フランス代表の10番も背負っていた将軍と呼ばれるエース、ミシェル・プラティニがおり彼の存在こそが最も注目されていた。もちろん当時の無知な私は日テレの煽りそのままにプラティニプラティニと騒いでおりましたが(もちろんプラティニはプレーもカリスマ性も凄かったワケですが)、ユベントス1-2アルヘンティノスで迎えた80分過ぎ、起死回生の同点ゴールを決めたその男に私はクギ付けになった。ミカエル・ラウドルップ、それがその男の名だった。しかしその後も世間はプラティニフィーバーが続きラウドルップの名は誰も覚えていないかのようだった…

デニッシュ・ダイナマイト
翌1986年、4年に1度のW杯がメキシコで開幕した。前回スペイン大会は一応観れる範囲で観たものの、当時小6の私にはあの時差は厳しいと言わざるを得なかった(笑)ので高1になった今回が初めてまともに見るW杯だった。当時はグループリーグはほぼダイジェスト放送のみではあったが、目を引くところは長めに観れたような記憶。優勝候補の西ドイツ(当時)をも破り堂々のグループリーグ1位通過を果たしたチームがあった。あのミカエル・ラウドルップ擁するデンマークであった。私は彼の姿を再び観る事ができたのだった。3-1-4-2という今考えてもどうかしてるぞといった感じの超攻撃的布陣でグループリーグを全勝で突破しデニッシュ・ダイナマイトの異名をとったデンマークは一躍大会の注目株になった。しかしこの後のトーナメント1回戦でスペインと対戦し1-5でデンマークは敗れることとなる。このとき5得点中4得点を奪ったのがレアル・マドリーに所属するエル・ブイトレことエミリオ・ブトラゲーニョという因縁なのだが、この事については後述します。そしてここから約4年、再び私とミカエル・ラウドルップの縁は遠ざかるのであった。

FCバルセロナってなんですか?
1990年、大学生になりお金も多少自由につかえるようになっていた私は、W杯イタリア大会の事前情報誌を読んでいた。Jリーグ開幕どころか日本人のプロサッカー選手すらほぼいない状況、日本代表がW杯に出ることは自分が生きてるうちに叶えば御の字とさえ思っていたあの頃、もちろんインターネットなどまだない。ページをめくった紙面の中にデンマークの名は無かった(その2年前たまたま見た雑誌の欧州選手権の出場国のなかにデンマークの名をみつけたもののミカエル・ラウドルップの姿はそこには無かった)。だが裏表紙の広告の中にFCバルセロナがやってくるという文字が。所属選手としてロナルト・クーマンとミカエル・ラウドルップ!お!? という驚きとともにFCバルセロナってなんですか?という疑問が。FCバルセロナとはスペイン、バルセロナを本拠地とする強豪チームで監督はオランダの英雄クライフだということまではわかった。この来日は諸事情により行われなかったようですが、その2年後FCバルセロナ(以下バルサ)は別の形で来日することとなる。欧州チャンピオンとして、かのトヨタ杯に出るためだった。

善戦むなしく
当時のトヨタ杯に関しては、現在と違い南米→欧州への選手流出は今ほどではなく、加えてシーズン真っ最中の欧州に比べ時差ボケ等の調整も含め南米側の方が有利な面も多かったため、欧州側の勝率はそれほど高くなかったのが実情だった。尚且言い訳のようだが、欧州チャンピオンこそがクライフ&バルサの悲願だったためトヨタ杯は半ばボーナスステージのように考えられていたようだ(当時の私はそんなこと知る由もなく)。
ストイチコフのゴールで先制するものの、ライーの活躍等もありFCサンパウロに逆転負けを喫する。ラウドルップも時折好プレーをみせるもののゴールにはつながらず。しかし時は1992年、日本代表がアジアカップを制しJリーグ開幕を翌年に控えた日本は空前のサッカーバブルを迎えようとしていた。北海道もテレ東系列の放送が始まりほんの5年ほど前とは情報の入り方が格段に違ってきていた(まだまだ今の比ではないが)。

Jリーグ開幕
話は多少前後するが、この頃からサッカー関連の雑誌や映像ソフトも増え、サカマガ、サカダイともに週刊化し、ダイヤモンドサッカー(ダイナミックサッカー時代含む)やセリエAダイジェスト(カズ移籍後ですが)など関連番組もかなり増えた。ありがたい時代だ。特にサカマガの情報とダイヤモンドサッカーは当時隆盛を誇っていたイタリア、セリエA以外の情報を得るチャンスであった。ラウドルップ命だった私はそこでバルサの他のエース、ストイチコフとロマリーオに出会う。そして忘れてはいけない男、ジョゼップ・グアルディオラ。

ドリームチーム
ラウドルップ擁するクライフのバルサは1992年のバルセロナ五輪を席巻したUSAバスケットボールチームに準えてドリームチームと呼ばれ、その名に恥じず90-91シーズンから93-94シーズンまでリーガ4連覇という偉業を成し遂げる。93-94シーズンのチャンピオンズリーグ(以下CL)ではサビチェビッチ擁するカペッロのミランに惨敗するわけだが、ドリームチームの強さはいかんなく発揮されたと思う。サビチェビッチという一人のジェニオ(天才)にやられただけなのだ。しかしこの1994年こそ私にとってとんでもない事件が起きるのであった。

W杯アメリカ大会
以前はW杯こそが私にとっての海外サッカーのほとんど全てといっても過言ではなかったが、今はもう違う。事前情報も映像もたくさんある。明らかに今までとは違う心境でテレビの前に座ることができた。今回もデンマークそしてラウドルップの姿はない。しかし今回はロマーリオ、そしてストイチコフに注目して観るという目的ができた(他にも注目プレイヤーはたくさんいた)。そしてロマーリオ擁するブラジルが優勝しMVPもロマーリオが獲得、ストイチコフ擁するブルガリアはベスト4でストイチコフは得点王となった。だがその一方で到底受け入れがたい出来事が起こっていた。ドリームチームの中心人物の一人といっても過言ではないラウドルップがフロント&クライフとの確執により退団、しかも移籍先はレアル・マドリーだという。なんてこった…

永遠のライバル
FCバルセロナとレアル・マドリー、この2チームは永遠ライバルなんて甘っちょろい言葉では語れない間柄である。統一スペインの中心、カスティージャ地方にある首都マドリードを本拠地とし王室の庇護のもとにあるレアル・マドリーに対し、元々独立気運の高いカタルーニャ地方の中心都市バルセロナに本拠地を構えるバルサはある意味反体制の象徴と言えなくもない。その2チーム間の移籍は裏切りといっても過言ではないのだ(後にフィーゴがバルサからマドリーに移籍したあとのクラシコで、許せないファンによりスタンドから豚の生首が投げ込まれた話は有名だ)。当時すでに一人のプレイヤーを追いかけるだけでなく、より応援するチームに忠実でいようと考えていた私は苦渋の上彼をマドリーに送り出した(という気分。もっとも私が日本の片隅で何を言おうと彼は移籍したのだが 笑)。もっともそういう社会的・文化的背景だけではなく個人的な理由で私はマドリーをずっと許せていなかったのだ。遡ること8年前のメキシコ、そうあのW杯のデンマークとスペインの一戦だ。あの試合で4得点を上げたスペイン代表のFWブトラゲーニョ、彼こそが当時のスペイン代表とレアル・マドリーのエースだったのだから(今でこそ違うけど当時はマドリーとバルサの選手が代表で一緒になることはあまりなく、必然的にマドリーの選手中心に代表チームが作られていた)。彼があそこであんな活躍さえしなければ…という思いはずっと消えないままでいた。そういう背景もあって、ラウドルップのマドリー移籍はとても残念な出来事だったし、結局翌94-95シーズンはラウドルップの活躍でマドリーがリーガを制するという立派なオチまでついた。ほらやっぱり彼を手放したのは間違いだったんだ。なんてこった…

クライフ時代の終焉と停滞期
ラウドルップ移籍に端を発したドリームチームの終焉は1996年のクライフ監督の退団で最終的に幕を閉じる。ロマーリオは素行不良により帰国。クーマン、ストイチコフ(後に出戻り)と相次いで退団・移籍。クライフは持病の心臓病を理由に第一線からも退いてしまう。

ネズミ男がやってきた!
クライフの後任はボビー・ロブソン。90年イタリア大会でイングランドをベスト4に導いた名将だ。彼のおかげで私はガスコインという男に出会えたのだ(余談です)。そしてブラジル代表の未来を担うと言われたロナウドが加入(これも余談ですがネズミ男とは私が勝手に呼んでるロナウドの名前ですが、彼は若い頃その出っ歯と素早い動きのせいでねずみっ子的な愛称で呼ばれてたそうです)。ブラジル→PSV→バルサという道のりはあのロマーリオと一緒だ!(ブラジル時代のクラブは違うけど)。いやが応にも期待は高まる。リーガ優勝こそならなかったもののカップウイナーズカップ(当時)を制し上々の出来。監督の「戦術はロナウド」という名言!?とともに、ロナウドはコンポステーラ戦での伝説の5人抜きゴールなど大活躍。しかし1シーズンでインテルへ移籍。後にマドリーに移籍しガラクティコの一員となるなどして私の嫌悪感を増幅させるのであった(個人の意見です)。

なんだかとっても長くなりそうなので一旦ここまで。次回はそのうち。アディオスアミーゴ!

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