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ひいばあちゃんの番茶は見つからない

どれほど強く願っても、どんな手を尽くしても、もう手に入らないものがある。僕にとっては「ひいばあちゃんの番茶」がそれにあたる。

母の実家は代々田んぼを持っていて、その隅にはお茶の木が植えてあった。母の祖母であるひいばあちゃんは、摘んだ茶葉を一度蒸して、むしろに広げて、時折お湯をかけながら天日干しを行い、番茶づくりをしていた。

お茶屋さんの分類では、各地の製法ごとに「京番茶」や「美作番茶」、「阿波番茶」などがあるそうだ。おぼろ気な僕の記憶と母や親戚たちに聞いた情報をつなぎ合わせると、「蒸す・お湯をかける・干す」工程がある点で美作の製法に近い気もする。

しかし、ひいばあちゃんは生まれてからずっと大阪の山奥で暮らしていたので本当に岡山方面の製法で作っていたのか疑問だ。また、細かい製法は親戚の誰一人として覚えていなかったから、詳細を確かめる術はない。ともかく山深い場所にある母の実家では、ひいばあちゃんが作るお茶を番茶と呼んでいた。

幼いころの僕はひいばあちゃんが淹れてくれる番茶が好きだった。渋みを抑えた味は子どもだった僕にも心地よく、フワリと立つ燻した香りは大人の飲み物を口にしているような満足感を与えてくれた。

母の実家から時折送られてくるその番茶は、父も気に入っており、水筒に入れて仕事に持参していた。帰宅後、その残りをもらうのが僕の密かな楽しみになっていた。

ところが、成長するにつれて、僕の回りには魅惑の飲み物であふれていることに気がついた。コーラやサイダーのシュワシュワとして脳を溶かす甘みには背徳的な魅力があったし、コーヒーの香ばしい匂いと舌に残る苦みは大人ぶりたい心を強烈に満たしてくれた。

お小遣いをもらえるくらいに成長したころ、僕はひいばあちゃんの少し茶色がかった番茶ではなく、自販機で買えるケミカルな色彩をした飲み物ばかり飲むようになっていた。

そして僕が中学生になった時、ひいばあちゃんは88歳で他界した。悲しかったことは言うまでもないが、今振り返ると、その時ひいばあちゃんの番茶のことは心から消え去っていたように思う。

■不意に起きた突沸

「ひいばあちゃんの番茶が飲みたい」と明確に思い出したのは20代を折り返した頃で、僕は東京で働いていた。きっかけは10年ほど前、当時の勤め先の上司と昼食時にした雑談だ。「子どもが実家の母が作る梅干しをとても気に入った。ただ、スーパーで買ってきたものは『ばあちゃんのじゃないとヤダ!』と、食べようとしない」と、日々の他愛ない話題の一つとして上司は話した。

しかしその話は、僕にとっては他愛ない日常の一コマ以上の衝撃をもたらした。頑なな振る舞いをする上司の子どもと、幼い自分を重ねていたに違いない。それまで忘れていたひいばあちゃんの番茶のことを思い出し、にわかに飲みたい衝動が沸きあがってきた。

その後、今でも番茶を作っているのか母の実家に尋ねてみると、ひいばあちゃんの死後は誰もお茶の木を管理できなくなり、ずいぶん前に切ってしまったと聞かされた。なお前述の通り、親戚はみな一様に作り方をぼんやりと記憶しているものの、ハッキリとは思い出せない。ひいばあちゃんの番茶の作り方は失われてしまっていた。

■試行のち後悔

ならば、市販品から探すしかあるまいと考えた。折よく当時住んでいた社員寮の近所にあるお茶屋さんで「番茶」と書かれた張り紙を見つけ、小躍りしたくなるような気持ちを抑えつつすぐさま購入した。

早速家で淹れてみる。お湯が沸く時間があれほど待ち遠しく感じたのはあまり記憶にない。併せて買った急須に茶葉を入れ、沸かしたお湯をそっと注ぐ。さあもうすぐ番茶が飲めるぞと、否応なしに期待が高まった。

しかし、湯気と共に立ち込める香りに、少し不安を感じた。良い香りには違いない。だが、香ばしすぎる。不穏な気持ちを抱えつつ、湯呑に注ぎ、口にする。予感は的中した。これはしいて言うならほうじ茶に近い。

当時は冒頭に書いたような番茶への知識などなかったが、今にして思えば京番茶は茶葉を焙じる工程があるので、おそらくその類を購入したのだろう。

その後、おそらく京番茶であろうお茶は、ほうじ茶のようなものとして美味しくいただいたが、「こんなの違う」と拒絶する気持ちも少なからずあった。そして、あの番茶はもう飲めない寂しさを感じ、幼いころ清涼飲料の誘惑に負けたことを後悔さえした。

■あの番茶はもう飲めないから

さらに時は流れ、30歳も半ばとなった今になっても、ふと思い出しては番茶を買ってみることは続けている。通販で取り寄せたり、旅先の路面市でお土産に買ってみたり、未だに色々試している。似ていると感じるものもあれば、全然違うと感じるものもある。

しかしいずれも、子どものころのあの番茶の味とはどこか違うと感じる。やはり僕にとっては「ひいばあちゃんが作ってくれた番茶」が特別だったのだと思い知る。なぜ特別なのかと考えた時、お茶の味もさることながら、そこには物語も付加されているからだと気づいた。

曲がった腰でも元気に山道を越え、好きな演歌を口ずさみながら畑仕事をしていたひいばあちゃん。夕飯の最後にほとんど空のお茶碗へと番茶を注いで、お米の欠片も残さず食べていたひいばあちゃん。幼い僕のさまざまな記憶があの頃の番茶の味を強烈に美化していたに違いない。

元上司のお子さんも、おばあちゃんが丹精込めて作る姿を想像したとか、家族で里帰りした時に食べて美味しかったとか、そういう思い出も一緒に梅干しを食べていたのではなかろうか。きっと、お店で買ったものは自分の中のおばあちゃんとの思い出とかみ合わないから拒絶したのだ。

誰と、どこで、どんな時に食べるかによって感じ方が変わるように、一緒にどんな物語を口にするかで味わいは変わる。そんな当たり前のことを何袋目かの番茶を飲みながら考えていた。

亡きひいばあちゃんの影を追い始めた時こそ、思い出に残る番茶とのギャップを受け入れられずにいた。しかし、それを繰り返すうちに、いつしか記憶にこだわることなく楽しめるようになった。「これは違う」と拒絶したお茶だってそれぞれ美味しいし、作り手たちの思いや、数あるお茶から一つを選んだ自分の意志にだって、そこに物語が存在するとわかったからだ。

それに気づいた僕は「もう手に入らないもの」に固執することをやめた。もうひいばあちゃんはこの世にいないし、お茶の木もない。これは覆しようのない現実だ。

本音を言えば、もしかするといつか運命的な出会いをするかもと、ほんの少しの期待は捨てきれない。だが、それにすがるのはなんとも空虚な人生に思える。決してひいばあちゃんの記憶を捨ててしまうわけではない。それを胸に秘めつつも、過去とのギャップから現実を否定するのではなく、どうすれば今がより楽しくなるのかに力を注ぐべきだと気づいたのだ。

自分で勝手にこしらえた檻の中でウロウロするのをやめると、少しお茶の味が豊かになったように感じる。ホッとする瞬間をかみしめることができる穏やかな人生は、ささやかだけど素晴らしいものだ。ひいばあちゃんが亡くなって20年以上経ち、ありきたりだけれど、自分にとっては価値のある、一つの気づきを得ることができた。

■ミモザとお彼岸

頼りないひ孫に生き方のヒントを与えてくれたことは、感謝してもし足りない。しかし僕は、今からひいばあちゃんにその気持ちを伝えることができるのだろうか。3月8日、大切な女性に感謝を伝える「ミモザの日」を前にして考えた。

お彼岸も近いことなので、ひとまず今年は仏花のほかに、こっそりミモザのドライフラワーも一緒に持参しようと思う。感謝の気持ちを込めてそっとお墓か仏壇に添えるくらいなら、ご先祖様も許してくれよう。

ひいばあちゃんに直接感謝を伝えきれなかった心残りは胸に秘め、これから先僕が出会う人たちに、素直に感謝や敬意を伝えられるようにしたい。

(写真:yukoymさん/Photo AC)

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