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求めたのは「幸せ」

ラブライブを「目指さない」という決断

虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会というのは、「ラブライブを目指さない」アニメです。
スクールアイドルが大好きだった優木せつ菜にとって、ラブライブこそが全てでした。

しかし、高咲侑はそれを否定します。
「だったら、ラブライブなんて出なくていい!」
半ば感情任せに放った一言が、せつ菜の心を揺さぶりました。


今までのラブライブアニメなら、とにかく「ラブライブ優勝」を旗印として、それに沿ったストーリー展開がなされてきました。
それらを見ていた私自身、どこか「ラブライブというアニメは大会で優勝するモノ」という、ある種の固定観念に囚われていたような気がします。
高咲侑は、それをも一言でぶち壊してしまう「天才」なのです。

自分たちの中のラブライブのあり方を3話のうちに語りきり、どう進めばいいのかをそこから模索していく。
この段取りは、ラブライブ優勝の意義や、ラブライブとは何ぞやを語っていた過去作とは決定的に異なるモノと言えます。

好みはあるにせよ、個人的にはこうした爽快感は好きですし、あまり深く視聴者に考えさせないスタイルに共感できます。
さらにこのアニメは、心情を風景に委ねきるのではなくて、極力キャラクター個人個人に語らせている。
このやり方というのは、セリフ量が物理的に増えるのもそうですが、キャラクターが具体的に何を考えているのか、どのようにして自分たちにまつわる諸問題を解決していくのか、そういった人間味を感じさせる手段として、大いに評価できるでしょう。

道標としての侑

話を戻しますが、侑というのは「そのキャラクターが1番幸せになるにはどうすればいいのか」を考える天才でもあります。
例えばせつ菜に語った時のように、何かがその人にとって足枷となってしまっているのなら、周りを巻き込んで迄その足枷を引きずって生きるのではなく、その足枷を壊してしまえばいいと考えるのです。
その方が確実にその人にとって「幸せ」だからです。
冒頭の
「だったら、ラブライブなんて出なくていい!」
というのは、その考えが根底にあるからこそ発せられたのです。
考えてみれば、実にシンプルであると言えます。

侑のように一言でものごとを解決できる能力、他人の幸せについて考えられる能力自体は後から身に着けることは難しく、天性の面があると思っています。
更にその能力を発揮することが可能な人間は限られていて、こと虹ヶ咲アニメにおいては「スクールアイドルではない」侑ならではでもあります。
なぜなら、極めて相手に寄り添いながらも、一見第三者的な(もちろん侑にとっては他人事じゃありませんが)目線で発言できるのは、その発言によって損益を被らない、いわば当事者以外にしかできないことだからです。
あくまでもファンとして、しかしあくまでも「誰よりも身近なファン」として、個性溢れる面々を取りまとめていくのです。
だからこそ、突拍子がないように見えても本質、核心を突く一言が生まれるのでしょう。

「スクールアイドルがいて、ファンがいる。それだけでいいんじゃない?」

せつ菜と菜々

せつ菜にとって、「中川菜々」という仮面を被るのは本意ではなかったはずです。
それはある種、本名でありながら本当の自分を覆い隠すための蓋のようなものだったのかもしれません。

親の期待と自分の想い、さらにラブライブ出場を切望するファン...
それらの板挟みにあったからこその葛藤があり、その中で誰かを傷つけてしまった。
そうなれば、
「優木せつ菜はもういない」
「自分にとってスクールアイドルなど必要ない」
「せつ菜にとっての大好きは自分本位のワガママに過ぎず、スクールアイドルを目指すこと自体が間違っていた
と考えるのは当然です。
しかし何度も言いますが、そうなった一番の原因は、ラブライブという大会が彼女にとって至上命題だったからなのです。
かすみは、せつ菜がかつて求めていた世界に対して「それは可愛くない」と言い放ちました。
それは、かすみ自身がスクールアイドルだからこそであり「自分を表現するためのスクールアイドル」だと考えていたからです。
しかし、侑は違う方向から(まさに第三者的な目線で)想いを提示します。

「ラブライブ」に出なければいいのではないか?

菜々にとってのせつ菜論さえ幻滅せずに、言い換えれば人の「大好き」をワガママとして否定せずに、個人の「幸せ」を叶えるがゆえに必要な居場所を与える為に...

もっとも、せつ菜に対して期待をしようと先程のように考えられるのは間違いなく、元々ラブライブではなくて「スクールアイドル自体に興味があった」侑以外には出来なかったのですし、「スクールアイドルではない存在」の侑以外には出来なかったのです。
さらに言えば、侑に「スクールアイドルの魅力を教え、夢を与え、大好きにさせた張本人」であるせつ菜相手にしか出来なかったのです。


そしてそれが、「優木せつ菜」にとっての「はじまりのうた」に繋がっていきます。
殻を破り本来なりたかった自分へと、真にスクールアイドルとして中川菜々から優木せつ菜に「脱皮」した瞬間だと思います。

求めたのは「幸せ」

結局、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会というアニメは、輝きでも奇跡でも、ましてや優勝を求める話でもなく、個人の「幸せ」を求める話ではないでしょうか。

ワクワク叶える物語
どうなるかは僕ら次第
出会いってそれだけで
奇跡と思うんだよ

「TOKIMEKI Runners」より

ワクワクを叶える、すなわち「自分のやりたいことを叶えること」、それはその人にとっての「幸せ」そのものです。
そのためなら、互いの感情を汲み取りながらも、今まであったある種の既成概念を打ち壊すことすら厭わない。
それは、虹ヶ咲にしか出来ない物語の紡ぎ方に他なりません。

また、「多様性」がキーワードとなっている昨今では、個人個人について考えること、スポットライトを当てること、それに伴ってそれぞれの事情や想いを汲み取ることは、以前より重要になってきています。
そう考えれば、このアニメは社会に対するある種のメッセージが隠されているようにも感じます。

さて、高咲侑の存在意義は、いよいよ明確になってきました。
彼女がどう活躍し、幸せを叶えていくのか...
それは、次回以降にも続いていく話です。

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