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治病大小権実違目中務左衛門尉殿御返事(二病抄)と現代毒薬療法

御本仏日蓮大聖人の御書の治水・流水・耆婆・偏鵲等の方薬(身の病治療方法)に、(劇薬抗がん剤)細胞毒処方・(劇薬向精神薬)神経毒処方・放射線被爆火傷処方何クルーも繰り返し・内蔵機能奪取等
現代(毒薬療法劇薬処方信仰)医学の・石油化学合成劇薬処方・バイオ化学兵器(mRNA剤等遺伝子傷害致死剤等)処方等は含まれていない。
人体内治癒力修復力健康回復力ホメオスタシス自然治癒力等に協力する漢方薬和法薬・薬草療法・食事療法・湯治等温熱療法・整体・鍼灸等伝統医学は、含まれている。
引用はじめ”
治病大小権実違目

 弘安元年(ʼ78)6月26日 57歳 富木常忍
 富木入道殿御返事    日蓮
 御消息に云わく「およそ疫病いよいよ興盛なり」等云々。
 夫れ、人に二つの病あり。一には身の病。いわゆる、地大百一、水大百一、火大百一、風大百一、已上四百四病なり。この病は、たとい仏にあらざれどもこれを治す。いわゆる治水・流水・耆婆・扁鵲等が方薬、これを治するにいゆて愈えずということなし。二には心の病。いわゆる三毒乃至八万四千の病なり。この病は二天三仙・六師等も治し難し。いかにいわんや、神農・黄帝等の方薬及ぶべしや。
 また心の病、重々に浅深・勝劣分かれたり。六道の凡夫の三毒・八万四千の心の病は、小仏・小乗の阿含経、俱舎・成実・律宗の論師・人師、これを治するにゆいて愈えぬべし。ただし、この小乗の者等、小乗を本として、あるいは大乗を背き、あるいは心には背かざれども大乗の国に肩を並べなんとする、その国・その人に諸病起こる。小乗等をもってこれを治すれば、諸病は増すとも治せらるることなし。諸大乗経の行者をもってこれを治すれば、則ち平愈す。また、華厳経・深密経・般若経・大日経等の権大乗の人々、各々「劣れるを勝ると謂う見」を起こして、我が宗はあるいは「法華経と斉等」、あるいは「勝れたり」なんど申す人多く出来し、あるいは国主等これを用いぬれば、これによって、三毒・八万四千の病起こる。かえって、自らの依経をもって治すれども、いよいよ倍増す。たとい法華経をもって行うとも験なし。経は勝れたれども、行者、僻見の者なる故なり。
 法華経にまた二経あり。いわゆる迹門と本門となり。本迹の相違は水火・天地の違目なり。例せば、爾前と法華経との違目よりもなお相違あり。爾前と迹門とは、相違ありといえども相似の辺も有りぬべし。所説に八教あり。爾前の円と迹門の円は相似せり。爾前の仏と迹門の仏は、劣応・勝応・報身・法身異なれども、始成の辺は同じきぞかし。今、本門と迹門とは、教主すでに久・始のかわりめ、百歳のおきなと一歳の幼子のごとし。弟子また水火なり。土の先後いうばかりなし。しかるを、本迹を混合すれば、水火を弁えざる者なり。
 しかるを、仏は分明に説き分け給いたれども、仏の御入滅より今に二千余年が間、三国ならびに一閻浮提の内に分明に分けたる人なし。ただ漢土の天台、日本の伝教、この二人ばかりこそほぼ分け給いて候えども、本門と迹門との大事に円戒いまだ分明ならず。詮ずるところは、天台と伝教とは内には鑑み給うといえども、一には時来らず、二には機なし、三には譲られ給わざる故なり。今、末法に入りぬ。地涌出現して弘通あるべきことなり。
 今、末法に入って本門のひろまらせ給うべきには、小乗・権大乗・迹門の人々、たとい科なくとも、彼々の法にては験有るべからず。譬えば、春の薬は秋薬とならず。たといなれども、春夏のごとくならず。いかにいわんや、彼の小乗・権大乗・法華経の迹門の人々、あるいは大小・権実に迷える上、上代の国主、彼々の経々に付いて寺を立て田畠も寄進せる故に、彼の法を下せば申し述べがたき上、依怙すでに失せるかの故に、大瞋恚を起こして、あるいは実経を謗じ、あるいは行者をあだむ。国主もまた、一つには多人につき、あるいは上代の国主の崇重の法をあらため難き故、あるいは自身の愚癡の故、あるいは実教の行者を賤しむゆえ等の故、彼の訴人等の語をおさめて実教の行者をあだめば、実教の守護神の梵釈・日月・四天等その国を罰する故に、先代未聞の三災七難起こるべし。いわゆる、去・今年、去ぬる正嘉等の疫病等なり。
 疑って云わく、汝が申すがごとくならば、この国法華経の行者をあだむ故に善神この国を治罰する等ならば、諸人の疫病しかるべし。何ぞ、汝が弟子等、またやみ死ぬるや。
 答えて云わく、汝が不審最もその謂れ有るか。ただし、一方を知って一方を知らざるか。善と悪とは無始よりの左右の法なり。権教ならびに諸宗の心は、善悪は等覚に限る。もししからば、等覚までは互いに失有るべし。法華宗の心は一念三千なり。性悪・性善、妙覚の位になお備われり。元品の法性は梵天・帝釈等と顕れ、元品の無明は第六天の魔王と顕れたり。善神は悪人をあだむ。悪鬼は善人をあだむ。末法に入りぬれば、自然に悪鬼は国中に充満せり。瓦石・草木の並び滋きがごとし。善鬼は天下に少なし。聖賢まれなる故なり。この疫病は、念仏者・真言師・禅宗・律僧等よりも日蓮が方にこそ多くやみ死ぬべきにて候か。いかにとして候やらん、彼らよりもすくなくやみすくなく死に候は、不思議におぼえ候。人のすくなき故か、また御信心の強盛なるか。問うて云わく、日本国に、この疫病、先代に有りや。
 答えて云わく、日本国は神武天皇よりは十代にあたらせ給いし崇神天皇の御代に疫病起こって、日本国やみ死ぬること半ばにすぐ。王、始めて天照太神等の神を国々に崇めしかば、疫病やみぬ。故に崇神天皇と申す。これは仏法のいまだわたらざりし時のことなり。人王第三十代ならびに一・二の三代の国主、ならびに臣下等、疱瘡と疫病に御崩去等なりき。その時は神にいのれども叶わざりき。
 去ぬる人王第三十代欽明天皇の御宇に、百済国より経・論・僧等をわたすのみならず、金銅の教主釈尊を渡し奉る。蘇我宿禰等、「崇むべし」と申す。物部大連等の諸臣ならびに万民等は、一同に「この仏は崇むべからず。もし崇むるならば、必ず我が国の神、瞋りをなして、国やぶれなん」と申す。王は両方弁えがたくおわせしに、三災七難、先代に超えて起こって、万民皆疫死す。大連等便りをえて奏聞せしかば、僧尼等をはじに及ぼすのみならず、金銅の釈迦仏をすみをおこして焼き奉る。寺また同じ。その時に大連やみ死ぬ。王も隠れさせ給い、仏をあがめし蘇我宿禰もやみぬ。
 大連が子・守屋大臣云わく「この仏をあがむる故に、三代の国主すでにやみかくれさせ給う。我が父もやみ死ぬ。まさに知るべし、仏をあがむる聖徳太子・馬子等はおやのかたき、公の御かたきなり」と申せしかば、穴部王子・宅部王子等ならびに諸臣已下数千人、一同によりきして、仏と堂等をやきはらうのみならず、合戦すでに起こりぬ。結句は守屋討たれ了わんぬ。仏法渡って三十五年が間、年々に三災七難・疫病起こりしが、守屋、馬子に討たるるのみならず、神もすでに仏にまけしかば、災難たちまちに止み了わんぬ。その後の代々の三災七難等は、大体は仏法の内の乱れより起こるなり。しかれども、あるいは一人二人、あるいは一国二国、あるいは一類二類、あるいは一処二処のことなれば、神のたたりも有り、謗法の故もあり、民のなげきよりも起こる。
 しかるに、この三十余年の三災七難等は、一向に他事を雑えず、日本一同に日蓮をあだみて、国々・郡々・郷々・村々・人ごとに、上一人より下万民にいたるまで、前代未聞の大瞋恚を起こせり。見思未断の凡夫の元品の無明を起こすこと、これ始めなり。神と仏と法華経にいのり奉らば、いよいよ増長すべし。ただし、法華経の本門をば法華経の行者につけて除き奉る。
 結句は、勝負を決せざらん外は、この災難止み難かるべし。
 止観の十境十乗の観法は、天台大師説き給いて後、行ずる人無し。妙楽・伝教の御時少し行ずといえども、敵人ゆわきゆえにさてすぎぬ。止観に三障四魔と申すは、権経を行ずる行人の障りにはあらず。今、日蓮が時、つぶさに起これり。また天台・伝教等の時の三障四魔よりも、いまひとしおまさりたり。一念三千の観法に二つあり。一には理、二には事なり。天台・伝教等の御時には理なり。今は事なり。観念すでに勝る故に、大難また色まさる。彼は迹門の一念三千、これは本門の一念三千なり。天地はるかに殊なりことなりと、御臨終の御時は御心えあるべく候。恐々謹言。
  六月二十六日    日蓮 花押
  さえもん殿の便宜の御かたびら、給び候い了わんぬ。
  今度の人々のかたがたの御さいども、左衛門尉殿の御日記のごとく給び了わんぬと申させ給い候え。
  太田入道殿のかたがたのもの、ときどのの日記のごとく給び候い了わんぬ。この法門のかたづらは左衛門尉殿にかきて候。こわせ給いて御らんあるべく候。
”引用おわり

引用はじめ”

中務左衛門尉殿御返事 弘安元年六月 五十七歳御作
 夫れ人に二病あり、一には身の病所謂地大百一・水大百一・火大百一・風大百一・已上四百四病・此の病は治水・流水・耆婆・偏鵲等の方薬をもつて此れを治す、二には心の病所謂三毒・乃至八万四千の病なり、仏に有らざれば二天・三仙も治しがたし何に況や神農黄帝の力及ぶべしや、又心の病に重重の浅深分れたり六道の凡夫の三毒・八万四千の心の病をば小乗の三蔵・倶舎・成実・律宗の仏此れを治す大乗の華厳・般若・大日経等の経経をそしりて起る三毒八万の病をば小乗をもつて此れを治すればかへりては増長すれども平愈全くなし、大乗をもつて此れを治すべし、又諸大乗経の行者の法華経を背きて起る三毒・八万の病をば華厳・般若・大日経・真言・三論等をもつて此れを治すれば・いよいよ増長す、譬へば木石等より出でたる火は水をもつて消しやすし・水より起る火は水をかくればいよいよ熾盛に炎上りて高くあがる、今の日本国去今年の疫病は四百四病にあらざれば華陀偏鵲が治も及ばず小乗権大乗の八万四千の病にもあらざれば諸宗の人人のいのりも叶はず・かへりて増長するか、設い今年は・とどまるとも年年に止がたからむか、いかにも最後に大事出来して後定まる事も候はんずらむ、法華経に云く「若し医道を修して方に順つて病を治せば更に他の疾を増し或は復死を致さん而も復増劇せん」涅槃経に云く「爾の時に王舎大城の阿闍世王○偏体に瘡を生じ乃至是くの如き創は心に従て生ず、四大より起るに非ず、若し衆生能く治する者有りと言はば是の処有ること無けん」云云、妙楽の云く「智人は起を知り・蛇は自ら蛇を識る」云云、此の疫病は阿闍世王の瘡の如し彼の仏に非ずんば治し難し此の法華に非ずんば除き難し、将又日蓮下痢去年十二月卅日事起り今年六月三日四日日日に度をまし月月に倍増す定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来日日月月に減じて今百分の一となれり、しらず教主釈尊の入りかわり・まいらせて日蓮をたすけ給うか、地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給えるかと疑い候なり、くはしくは筑後房申すべく候。
 又追つて申す・きくせんは今月二十五日戌の時来りて候・種種の物かずへつくしがたし、ときどののかたびらの申し給わるべし、又女房の御ををぢの御事なげき入つて候よし申し給ふべし、恐恐。
 六月廿六日 日 蓮花押
 中務左衛門尉殿御返事
”引用おわり

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ひらがな御書 引用はじめ”
ちびょう だいしょう ごんじつ いもく.
治病 大小 権実 違目.

こうあん 5ねん 6がつ 61さい おんさく.
弘安 五年 六月 六十一歳 御作.

ときにゅうどうどの ごへんじ にちれん.
富木入道殿 御返事 日蓮.

さえもんどのの べんぎの おんかたびら たまい おわんぬ.
さへもん殿の 便宜の 御 かたびら 給い 了んぬ。.

こんどの ひとびとの かたがたの ごさいども.
今度の 人人の かたがたの 御さいども.

さえもんのじょうどのの おんにっきの ごとく たまい おわんぬと もうさせ たまい そうらえ.
佐衛門尉殿の 御日記の ごとく 給い 了んぬと 申させ 給い 候へ。.

おおたにゅうどうどのの かたがたの もの ときどのの にっきの ごとくたまい そうらい おわんぬ.
太田入道殿の かたがたの もの・ ときどのの 日記の ごとく 給い 候了んぬ.

この ほうもんの かたづらは さえもんのじょうどのに かきて そうろう.
此の 法門の かたづらは 佐衛門尉殿に かきて 候、.

こわせ たまいて ごらん あるべく そうろう.
こわせ 給いて 御らむ 有るべく 候。.

ごしょうそくに いわく.
御消息に 云く.

およそ えきびょう いよいよ こうじょう とうと うんぬん.
凡そ 疫病 弥 興盛 等と 云云、.

これ ひとに 2の やまい あり.
夫れ 人に 二の 病 あり.

1には みの やまい.
一には 身の 病・.

いわゆる ちだい 101 すいだい 101 ふうだい 101 いじょう 404びょう なり.
所謂 地大 百一・ 水大 百一・ 火大 百一 風大 百一・ 已上 四百四病 なり、.

この やまいは たとい ほとけに あらざれども これを じす.
此の 病は 設い 仏に 有らざれども・ 之を 治す.

いわゆる じすい るすい ぎば へんじゃくらが ほうやく.
所謂 治水・ 流水・ 耆婆・ 扁鵲等が 方薬・.

これを じするに ゆいて いえず という こと なし.
此れを 治するに ゆいて 愈えず という 事 なし、.

2には こころの やまい いわゆる さんどく ないし 84000の やまい なり.
二には 心の 病・ 所謂 三毒 乃至 八万四千の 病 なり、.

この やまいは 2てん 3せん 6し とうも じし がたし.
此の 病は 二天・ 三仙・ 六師 等も 治し 難し.

いかに いわんや しんのう こうてい とうの ほうやく およぶ べしや.
何に 況や 神農・ 黄帝 等の 方薬 及ぶ べしや、.

また こころの やまい じゅうじゅうに せんじん しょうれつ わかれたり.
又 心の 病・ 重重に 浅深・ 勝劣 分れたり、.

ろくどうの ぼんぷの さんどく 84000の しんびょうは.
六道の 凡夫の 三毒・ 八万四千の 心病は.

しょうぶつ しょうじょうあごんきょう くしゃ じょうじつ りっしゅうのろんし にんじ.
小仏・ 小乗阿含経・ 倶舎・ 成実・ 律宗の 論師・ 人師.

これを じするに ゆいて いえぬべし.
此れを 治するに ゆいて 愈えぬべし、.

ただし この しょうじょうの ものら しょうじょうを ほんとして.
但し 此の 小乗の 者等・ 小乗を 本として.

あるいは だいじょうを そむき あるいは こころには そむかざれども.
或は 大乗を 背き 或は 心には 背かざれども.

だいじょうの くにに かたを ならべ なんどする.
大乗の 国に 肩を 並べ なんどする.

その くに その ひとに しょびょう おこる.
其の 国 其の 人に 諸病 起る、.

しょうじょう とうを もって これを じすれば しょびょうは ますともじせらるる こと なし.
小乗 等を もつて 此れを 治すれば 諸病は 増すとも 治せらるる 事なし、.

しょだいじょうきょうの ぎょうじゃを もって これを じすれば すなわち へいゆ す.
諸大乗経の 行者を もつて 此れを 治すれば 則ち 平愈 す、.

また けごんきょう じんみつきょう はんにゃきょう だいにちきょう とうの ごんだいじょうの ひとびと.
又 華厳経・ 深密経・ 般若経・ 大日経 等の 権大乗の 人人・.

おのおの れつい しょうけんを おこして わが しゅうは あるいは ほけきょうと ひとし.
各各 劣謂 勝見を 起して 我が 宗は 或は 法華経と 斉等.

あるいは すぐれたり なんども もうす ひと おおく しゅったいし.
或は 勝れたり なんど 申す 人 多く 出来し.

あるいは こくしゅ とう これを もちいぬれば これに よって さんどく 84000の やまい おこる.
或は 国主 等 此れを 用いぬれば 此れに よつて 三毒・ 八万四千の病 起る、.

かえって この えきょうを もって じすれども いよいよ ばいぞう す.
返つて 自の 依経を もつて 治すれども・ いよいよ 倍増 す、.

たとい ほけきょうを もって おこなうとも しるし なし.
設い 法華経を もつて 行うとも 験 なし.

きょうは すぐれ たれども ぎょうじゃ びゃっけんのもの なる ゆえなり..
経は 勝れ たれども 行者・ 僻見の者 なる 故なり。..

ほけきょうに また 2きょう あり..
法華経に 又 二経 あり..

いわゆる しゃくもんと ほんもんと なり.
所謂 迹門と 本門と なり.

ほんじゃくの そういは すいか てんちの いもく なり.
本迹の 相違は 水火 天地の 違目 なり、.

れいせば にぜんと ほけきょうとの いもく よりも なお そうい あり.
例せば 爾前と 法華経との 違目 よりも 猶 相違 あり.

にぜんと しゃくもんとは そうい ありと いえども そうじの へんも ありぬべし.
爾前と 迹門とは 相違 ありと いへども 相似の 辺も 有りぬべし、.

しょせつに はっきょう あり.
所説に 八教 あり.

にぜんの えんと しゃくもんの えんは そうじ せり.
爾前の 円と 迹門の 円は 相似 せり.

にぜんの ほとけと しゃくもんの ほとけは れつおう しょうおう ほうしん ほっしん ことなれども.
爾前の 仏と 迹門の 仏は 劣応・ 勝応・ 報身・ 法身 異れども.

しじょうの へんは おなじき ぞかし.
始成の 辺は 同じき ぞかし、.

いま ほんもんと しゃくもんとは きょうしゅ すでに くしの かわりめ.
今 本門と 迹門とは 教主 已に 久始の かわりめ.

100さいの おきなと いっさいの ようじの ごとし.
百歳の をきなと 一歳の 幼子の ごとし、.

でし また すいか なり どの せんご いう ばかり なし.
弟子 又 水火 なり 土の 先後 いう ばかり なし、.

しかるを ほんじゃくを こんどう すれば すいかを わきまえざる ものなり.
而るを 本迹を 混合 すれば 水火を 弁えざる 者なり、.

しかるを ほとけは ふんみょうに とき わけ たまいたれども.
而るを 仏は 分明に 説き 分け 給いたれども.

ほとけの ごにゅうめつ より いまに 2000よねんが あいだ.
仏の 御入滅 より 今に 二千余年が 間.

さんごく ならびに いちえんぶだいの うちに ふんみょうに わけたる ひと なし.
三国 並びに 一閻浮提の 内に 分明に 分けたる 人 なし、.

ただ かんどの てんだい にほんの でんぎょう.
但 漢土の 天台・ 日本の 伝教・.

この ふたり ばかり こそ ほぼ わけ たまいて そうらえども.
此の 二人 計り こそ 粗 分け 給いて 候へども.

ほんもんと しゃくもんとの だいじに えんかい いまだ ふんみょう ならず.
本門と 迹門との 大事に 円戒 いまだ 分明 ならず、.

せんずる ところは てんだいと でんぎょうとは うちには かんがみ たまうと いえども.
詮ずる 処は 天台と 伝教とは 内には 鑒み 給うと いへども.

1には とき きたらず 2には き なし 3には ゆずられ たまわざる ゆえなり.
一には 時 来らず 二には 機なし 三には 譲られ 給はざる 故なり、.

いま まっぽうに いりぬ じゆ しゅつげんして ぐつう あるべき ことなり.
今 末法に 入りぬ 地涌 出現して 弘通 有るべき 事なり、.

いま まつぽうに いって ほんもんの ひろまらせ たまう べきには.
今 末法に 入つて 本門の ひろまらせ 給う べきには.

しょうじょう ごんだいじょう しゃくもんの ひとびと たとい とが なくとも.
小乗・ 権大乗・ 迹門の 人人・ 設い 科 なくとも.

かれがれの ほうにては しるし ある べからず.
彼れ彼れの 法にては 験 有る べからず、.

たとえば はるの くすりは あきの くすり ならず.
譬へば 春の 薬は 秋の 薬と ならず.

たとい なれども はる なつの ごとく ならず.
設い なれども 春 夏の ごとく ならず.

いかに いわんや かの しょうじょう ごんだいじょう ほけきょうの しゃくもんの ひとびと.
何に 況や 彼の 小乗・ 権大乗・ 法華経の 迹門の 人人.

あるいは だいしょう ごんじつに まよえる うえ じょうだいの こくしゅ.
或は 大小 権実に 迷える 上・ 上代の 国主.

かれがれの きょうぎょうに つきて てらを たて でんぱたを きしん せる.
彼れ彼れの 経経に 付きて 寺を 立て 田畠を 寄進 せる.

ゆえに かの ほうを くだせば もうし のべがたき うえ.
故に 彼の 法を 下せば 申し 延べがたき 上・.

えこ すでに うせるかの ゆえに だいしんにを おこして
依怙 すでに 失るかの 故に 大瞋恚を 起して

あるいは じっきょうを ぼうじ あるいは ぎょうじゃを あだむ こくしゅも また.
或は 実経を 謗じ 或は 行者を あだむ 国主も 又.

いちには たにんに つき.
一には 多人に つき.

あるいは じょうだいの こくしゅの すうちょうの ほうを あらため がたき ゆえ.
或は 上代の 国主の 崇重の 法を あらため 難き 故・.

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あるいは じしんの ぐちの ゆえ.
或は 自身の 愚癡の 故・.

あるいは じっきょうの ぎょうじゃを いやしむ ゆえ とうの ゆえ.
或は 実教の 行者を 賤しむ ゆへ 等の 故.

かの そにん とうの ことばを おさめて じっきょうの ぎょうじゃを あだめば.
彼の 訴人 等の 語を・ をさめて 実教の 行者を あだめば.

じっきょうの しゅごしんの ぼんしゃく にちがつ してん とう その くにを ばっする ゆえに.
実教の 守護神の 梵釈・ 日月・ 四天等・ 其の 国を 罰する 故に.

せんだい みもんの さんさい しちなん おこるべし.
先代 未聞の 三災・ 七難 起るべし、.

いわゆる こぞ ことし いぬる しょうか とうの やくびょう とう なり.
所謂 去 今年・ 去ぬる 正嘉 等の 疫病 等 なり。.

うたがって いわく なんじが もうすが ごとく ならば.
疑つて 云く 汝が 申すが ごとく ならば.

この くに ほけきょうの ぎょうじゃを あだむ ゆえに.
此の 国 法華経の 行者を あだむ 故に.

ぜんじん この くにを じばつ する とう ならば しょにんの やくびょう なるべし.
善神 此の 国を 治罰 する 等 ならば 諸人の 疫病 なるべし.

なんぞ なんじが でしら また やみ しぬるや.
何ぞ 汝が 弟子 等 又 やみ 死ぬるや、.

こたえて いわく なんじが ふしん もっとも その いわれ あるか.
答えて 云く 汝が 不審 最も 其の 謂 有るか.

ただし いっぽうを しりて いっぽうを しらざるか.
但し 一方を 知りて 一方を 知らざるか、.

ぜんと あくとは むしよりの さゆうの ほう なり.
善と 悪とは 無始よりの 左右の 法 なり.

ごんきょう ならびに しょしゅうの こころは ぜんあくは とうかくに かぎる.
権教 並びに 諸宗の 心は 善悪は 等覚に 限る.

もし しからば とうかく までは たがいに とが あるべし.
若し 爾ば 等覚 までは 互に 失 有るべし、.

ほっけしゅうの こころは いちねんさんぜん しょうあくしょうぜん みょうかくの くらいに なお そなわれり.
法華宗の 心は 一念三千・ 性悪性善・ 妙覚の 位に 猶 備われり.

がんぽんの ほっしょうは ぼんてん たいしゃく とうと あらわれ.
元品の 法性は 梵天・ 帝釈 等と 顕われ.

がんぽんの むみょうは だいろくてんのまおうと あらわれたり.
元品の 無明は 第六天の魔王と 顕われたり、.

ぜんじんは あくにんを あだむ あっきは ぜんにんを あだむ.
善神は 悪人を あだむ 悪鬼は 善人を あだむ、.

まっぽうに いりぬれば しぜんに あっきは くにじゅうに じゅうまんせり.
末法に 入りぬれば 自然に 悪鬼は 国中に 充満せり.

がしゃく そうもくの ならび しげきが ごとし.
瓦石 草木の 並び 滋が ごとし.

ぜんきは てんかに すこし せいけん まれなる ゆえなり.
善鬼は 天下に 少し 聖賢 まれなる 故なり、.

この やくびょうは ねんぶつしゃ しんごんし ぜんしゅう りっそうら よりも.
此の 疫病は 念仏者・ 真言師・ 禅宗・ 律僧等 よりも.

にちれんが ほうに こそ おおく やみ しぬべきにて そうろうか.
日蓮が 方に こそ 多く やみ 死ぬべきにて 候か、.

いかにとして そうろう やらん.
いかにとして 候 やらん.

かれら よりも すくなく やみ すくなく しに そうろうは ふしぎに おぼえ そうろう.
彼等 よりも すくなく やみ・ すくなく 死に 候は 不思議に をぼへ 候、.

ひとの すくなき ゆえか また ごしんじんの ごうじょう なるか.
人の すくなき 故か 又 御信心の 強盛 なるか。.

とうて いわく.
問うて 云く.

にほんこくに この やくびょう せんだいに ありや.
日本国に 此の 疫病 先代に 有りや、.

こたえて いわく.
答えて 云く.

にほんこくは じんむてんのう よりは 10だいに あたらせ たまいし すじんてんのうの みよに.
日本国は 神武天皇 よりは 十代に あたらせ 給いし 崇神天皇の 御代に.

やくびょう おこりて にほんこく やみ しぬる こと なかばに すぐ.
疫病 起りて 日本国 やみ 死ぬる 事 半に すぐ、.

おう はじめて てんしょうだいじん とうの かみを くにぐにに あがめしかば やくびょう やみぬ.
王 始めて 天照太神 等の 神を 国国に 崇 しかば 疫病 やみぬ.

ゆえに すじんてんのうと もうす.
故に 崇神天皇と 申す、.

これは ぶっぽうの いまだ わたら ざりし ときの こと なり.
此れは 仏法の いまだ わたら ざりし 時の 事 なり、.

にんのう だい30だい ならびに 1 2の 3だいの こくおう.
人王 第三十代・ 並びに 一 二の 三代の 国主.

ならびに しんか とう ほうそうと えきびょうに ごほうぎょ とう なりき.
並びに 臣下 等 疱瘡と 疫病に 御崩去 等 なりき、.

その ときは かみに いのれども かなわざりき.
其の 時は 神に いのれども 叶わざりき、.

いぬる にんのう 30だい きんめいてんのうの ぎょうに.
去ぬる 人王 三十代・ 欽明天皇の 御宇に.

くだらこくより きょう ろん そう とうを わたす.
百済国より 経・ 論・ 僧 等を わたす.

のみならず こんどうの きょうしゅ しゃくそんを わたし たてまつる.
のみならず 金銅の 教主 釈尊を 渡し 奉る、.

そがの すくね とう あがむべしと もうす もののべのおおむらじらの しょしん.
蘇我の 宿禰 等 崇むべしと 申す 物部の大連 等の 諸臣.

ならびに ばんみんらは いちどうに この ほとけは あがむ べからず.
並びに 万民等は 一同に 此の 仏は 崇む べからず.

もし あがむる ならば かならず わが くにの かみ いかりを なしてくに やぶれなんと もうす.
若し 崇むる ならば 必ず 我が 国の 神・瞋りを なして 国 やぶれなんと 申す、.

おうは りょうほう わきまえがたく おわせしに.
王は 両方 弁まえがたく をはせしに.

さんさい しちなん せんだいに こえて おこり ばんみん みな えきし す.
三災・ 七難・ 先代に 超えて 起り 万民 皆 疫死 す、.

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b998

おおむらじら たよりを えて そうもん せしかば.
大連等 便りを 得て 奏問 せしかば.

そうにらを はじに およぼすの みならず.
僧尼等を はじに 及ぼす のみならず.

こんどうの しゃかぶつを すみを おこして やき たてまつる.
金銅の 釈迦仏を すみを をこして 焼き 奉る.

てら また おなじ.
寺 又 同じ、.

その ときに おおむらじ やみ しぬ.
爾の 時に 大連 やみ 死ぬ.

おうも かくれさせ たまい.
王も 隠れさせ 給い.

ほとけを あがめし そがの すくねも やみぬ.
仏を あがめし 蘇我の 宿禰も やみぬ、.

おおむらじが こ もりやの おとど いわく.
大連が 子・ 守屋の 大臣 云く.

この ほとけを あがむる ゆえに 3だいの こくしゅ すでに やみ かくれさせ たまう.
此の 仏を あがむる 故に 三代の 国主 すでに・ やみ かくれさせ 給う.

わが ちちも やみ しぬ.
我が 父も やみ 死ぬ、.

まさに しるべし.
まさに 知るべし.

ほとけを あがむる しょうとくたいし うまこらは おやの かたき.
仏を あがむる 聖徳太子・ 馬子等は をやの かたき.

きみの おんかたきなりと もうせ しかば.
公の 御かたきなりと 申せ しかば.

あなべの おうじ やかべの おうじ とう.
穴部の 王子・ 宅部の 王子 等・.

ならびに しょしん いか すう1000にん いちどうに よりきして.
並びに 諸臣 已下 数千人 一同に よりきして.

ほとけと どう とうを やきはらう のみならず かっせん すでに おこりぬ.
仏と 堂 等を やきはらう のみならず、合戦 すでに 起りぬ.

けっくは もりや うたれ おわんぬ.
結句は 守屋 討たれ 了んぬ、.

ぶっぽう わたりて 35ねんが あいだ ねんねんに さんさい しちなん えきびょう おこりしが.
仏法 渡りて 三十五年が 間・ 年年に 三災・ 七難・ 疫病 起りしが.

もりや うまこに うたるる のみならず.
守屋・ 馬子に 討たるる のみならず.

かみも すでに ほとけに まけ しかば さいなん たちまちに やみ おわんぬ.
神 もすでに 仏に まけ しかば 災難 忽に 止み 了んぬ、.

その あとの だいだいの さんさい しちなん とうは.
其の 後の 代代の 三災・ 七難 等は.

だいたいは ぶっぽうの うちの みだれより おこる なり.
大体は 仏法の 内の 乱れより起る なり、.

しかれども あるいは ひとり ふたり あるいは いっこく にこく.
而れども 或は 一人・ 二人 或は 一国・ 二国.

あるいは いちるい にるい あるいは いっしょ にしょの こと なれば.
或は 一類・ 二類 或は 一処・ 二処の 事 なれば.

かみの たたりも あり ほうぼうの ゆえも あり たみの なげき よりも おこる.
神の たたりも 有り 謗法の 故も あり 民の なげき よりも 起る。.

しかるに この くにの 30よねんの さんさい しちなん とうは いっこうに たじを まじえず.
而るに 此の 三十余年の 三災・ 七難 等は 一向に 他事を 雑えず.

にほん いちどうに にちれんを あだみて.
日本・ 一同に 日蓮を あだみて.

くにぐに ぐんぐん ごうごう むらむら ひと ごとに.
国国・ 郡郡・ 郷郷・ 村村・ 人 ごとに.

かみ 1にん より しも ばんみんに いたるまで ぜんだいみもんの だいしんにを おこせり.
上 一人 より 下 万民に いたるまで 前代未聞の 大瞋恚を 起せり、.

けんじみだんの ぼんぷの がんぽんの むみょうを おこす これ はじめなり.
見思未断の 凡夫の 元品の 無明を 起す 事 此れ 始めなり、.

かみと ほとけと ほけきょうに いのり たてまつらば いよいよ ぞうちょう すべし.
神と 仏と 法華経に いのり 奉らば いよいよ 増長 すべし、.

ただし ほけきょうの ほんもんをば ほけきょうの ぎょうじゃに つけてのぞき たてまつる.
但し 法華経の 本門をば 法華経の 行者に つけて 除き 奉る.

けっくは しょうぶを けっせざらん ほかは この さいなん やみ がたかるべし.
結句は 勝負を 決せざらん 外は 此の 災難 止み 難かるべし、.

しかんの じっきょう じゅうじょうの かんぽうは てんだいだいし ときたまいて のち ぎょうずる ひと なし.
止観の 十境・ 十乗の 観法は 天台大師 説き 給いて 後・行ずる 人無し、.

みょうらく でんぎょうの おんとき すこし ぎょうずと いえども てきじん よわき ゆえに さてすぎぬ.
妙楽・ 伝教の 御時 少し 行ずと いへども 敵人 ゆわき ゆへに さてすぎぬ、.

しかんに さんしょうしまと もうすは ごんきょうを ぎょうずる ぎょうにんの さわりには あらず.
止観に 三障・四魔と 申すは 権経を 行ずる 行人の 障りには あらず.

いま にちれんが とき つぶさに おこれり.
今 日蓮が 時 具さに 起れり、.

また てんだい でんぎょうの ときの さんしょうしま よりも いま ひとしお まさりたり.
又 天台・ 伝教 等の 時の 三障・ 四魔 よりも いま ひとしを まさりたり。.

いちねんさんぜんの かんぽうに ふたつ あり.
一念三千の 観法に 二つ あり.

1には り 2には じ なり.
一には 理・ 二には 事 なり.

てんだい でんぎょう とうの おんときには り なり.
天台・ 伝教 等の 御時には 理 なり.

いまは じ なり.
今は 事 なり.

かんねん すでに まさる ゆえに だいなん また いろ まさる.
観念 すでに 勝る 故に 大難 又 色 まさる、.

かれは しゃくもんの いちねんさんぜん これは ほんもんの いちねんさんぜん なり.
彼は 迹門の 一念三千・ 此れは 本門の 一念三千 なり.

てんち はるかに ことなり ことなりと ごりんじゅうの おんときは おんこころえ あるべく そうろう.
天地 はるかに 殊なり ことなりと 御臨終の 御時は 御心へ 有るべく候、.

きょうきょう きんげん.
恐恐 謹言。.
6がつ 26にちに ちれんか おう.
六月 二十六日 日蓮 花押.
”引用おわり

引用はじめ”
なかつかさ さえもんのじょうどの ごへんじ.
中務 左衛門尉殿 御返事.

こうあん がんねん 6がつ 57さい おんさく.
弘安 元年 六月 五十七歳 御作.

それ ひとに 2びょう あり.
夫れ 人に 二病 あり、.

1には みの やまい.
一には 身の 病.

いわゆる じだい 100いち すいだい 100いち ひだい 100いち ふうだい 100いち いじょう 4ひゃく4びょう.
所謂 地大 百一・ 水大 百一・ 火大 百一・ 風大 百一・ 已上 四百四病・.

この やまいは じすい るすい ぎば へんじゃくらの ほうやくを もって これを じす.
此の 病は 治水・ 流水・ 耆婆・ 偏鵲等の 方薬を もつて 此れを 治す、.

2には こころの やまい.
二には 心の 病.

いわゆる 3どく ないし 8まん4せんの やまい なり.
所謂 三毒・ 乃至 八万四千の 病 なり、.

ほとけに あらざれば 2てん 3せんも じし がたし.
仏に 有らざれば 二天・ 三仙も 治し がたし.

いかに いわんや じんのう こうていの ちから およぶ べしや.
何に 況や 神農 黄帝の 力 及ぶ べしや、.

また こころの やまいに じゅうじゅうの せんじん わかれたり.
又 心の 病に 重重の 浅深 分れたり.

6どうの ぼんぷの 3どく 8まん4せんの こころの やまいをば.
六道の 凡夫の 三毒・ 八万四千の 心の 病をば.

しょうじょうの さんぞう くしゃ じょうじつ りっしゅうの ほとけ これを じす.
小乗の 三蔵・ 倶舎・ 成実・ 律宗の 仏 此れを 治す.

だいじょうの けごん はんにゃ だいにちきょう とうの きょうぎょうを そしりて おこる 3どく 8まんの やまいをば.
大乗の 華厳・ 般若・ 大日経 等の 経経を そしりて 起る 三毒 八万の 病をば.

しょうじょうを もって これを じすれば かえりては ぞうちょうすれども へいゆ まったく なし.
小乗を もつて 此れを 治すれば かへりては 増長 すれども 平愈 全く なし、.

だいじょうを もって これを じす べし.
大乗を もつて 此れを 治す べし、.

また しょだいじょうきょうの ぎょうじゃの ほけきょうを そむきて おこる さんどく.
又 諸大乗経の 行者の 法華経を 背きて 起る 三毒・.

8まんの やまいをば けごん はんにゃ だいにちきょう しんごん 3ろんとうを もって.
八万の 病をば 華厳・ 般若・ 大日経・ 真言 三論等を もつて.

これを じすれば いよいよ ぞうちょうす.
此れを 治すれば・ いよいよ 増長す、.

たとえば もくせき とうより いでたる ひは みずを もって けし やすし.
譬へば 木石 等より 出でたる 火は 水を もつて 消し やすし・.

みずより おこる ひは みずを かければ いよいよ さかんに ほのお のぼりて たかく あがる.
水より 起る 火は 水を かくれば いよいよ 熾盛に 炎 上りて 高く あがる、.

いまの にほんこく こぞ ことしの えきびょうは 4ひゃく4びょうに あらざれば かだへんじゃくが じも およばず.
今の 日本国 去 今年の 疫病は 四百四病に あらざれば 華陀偏鵲が 治も 及ばず.

しょうじょう ごんだいじょうの 8まん4せんの やまいにも あらざれば しょしゅうの ひとびとの いのりも かなわず.
小乗権 大乗の 八万四千の 病にも あらざれば 諸宗の 人人の いのりも 叶はず・.

かえりて ぞうちょう するか.
かへりて 増長 するか、.

たとい ことしは とどまるとも ねんねんに やみがたからんか.
設い 今年は・ とどまるとも 年年に 止がたからむか、.

いかにも さいごに だいじ しゅったいして のち さだまる ことも そうらわん ずらん.
いかにも 最後に 大事 出来して 後 定まる 事も 候はん ずらむ、.

ほけきょうに いわく.
法華経に 云く.

「もし いどうを しゅうして ほうに したがって やまいを じせば.
「若し 医道を 修して 方に 順つて 病を 治せば.

さらに ほかの やまいを まし あるいは また しを いたさん しかも また ぞうぎゃく せん」.
更に 他の 疾を 増し 或は 復 死を 至さん 而も 復 増劇 せん」.

ねはんぎょうに いわく.
涅槃経に 云く.

「その ときに おうしゃだいじょうの あじゃせおう へんたいに かさを しょうじ.
「爾の 時に 王舎大城の 阿闍世王 ○偏体に 瘡を 生じ.

ないし かくの ごとき かさは こころに したがいて しょうず.
乃至 是くの 如き 創は 心に 従て 生ず、.

4だいより おこるに あらず.
四大より 起るに 非ず、.

もし しゅじょう よく じする もの ありと いわば このことわり あること なけん」うんぬん.
若し 衆生 能く 治する 者 有りと 言はば 是の 処 有ること 無けん」云云、.

みょうらくの いわく.
妙楽の 云く.

「ちじんは きを しり じゃは みずから じゃを しる」うんぬん.
「智人は 起を 知り・ 蛇は 自ら 蛇を 識る」云云、.

このえきびょうは あじゃせおうの かさの ごとし.
此の 疫病は 阿闍世王の 瘡の 如し.

かの ほとけに あらずんば じし がたし.
彼の 仏に 非ずんば 治し 難し.

この ほっけに あらずんば のぞき がたし.
此の 法華に 非ずんば 除き 難し、.

はたまた にちれん くだりばら いぬる 12がつ 30にち こと おこり.
将又 日蓮 下痢 去年 十二月 卅日 事 起り.

ことし 6がつ みっか よっか ひびに どを まし つきづきに ばいぞうす.
今年 六月 三日 四日 日日に 度を まし 月月に 倍増す.

じょうごうかと ぞんずる ところに.
定業かと 存ずる 処に.

きへんの りょうやくを ふくしてより このかた ひび つきづきに げんじて いま 100ぶんの 1と なれり.
貴辺の 良薬を 服してより 已来 日日 月月に 減じて 今 百分の 一と なれり、.

しらず きょうしゅ しゃくそんの いりかわり まいらせて にちれんを たすけ たまうか.
しらず 教主 釈尊の 入りかわり・ まいらせて 日蓮を たすけ 給うか、.

じゆの ぼさつの みょうほうれんげきょうの りょうやくを さずけ たまえるかと うたがい そうろうなり.
地涌の 菩薩の 妙法蓮華経の 良薬を さづけ 給えるかと 疑い 候なり、.

くわしくは ちくごぼう もうすべく そうろう.
くはしくは 筑後房 申すべ く候。.

また おって もうす.
又 追つて 申す・.

きくせんは こんげつ 25にち いぬのとき きたりて そうろう.
きくせんは 今月 二十五日 戌の 時 来りて 候・.

しゅじゅの もの かぞえ つくしがたし.
種種の 物 かずへ つくしがたし、.

ときどのの かたびらの もうし たまわるべし.
ときどのの かたびらの 申し 給わるべし、.

また にょうぼうの おんおおちの おんこと.
又 女房の 御ををちの 御事.

なげき いって そうろうよし もうし たまうべし、きょうきょう.
なげき 入つて 候よし 申し 給ふべし、恐恐。.

6がつ 16にち にちれん かおう.
六月 廿六日 日蓮 花押.

なかつかさ さえもんのじょうどの ごへんじ.
中務 左衛門尉殿 御返事.
”引用おわり

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